「夜空」 央野迷子
ビルの屋上から星を見ていた。
ひび割れて細かな水滴が滲んだコンクリートの床の上に、落ちていたダンボールを敷き、その上に厚手のハンカチを敷いて腰掛ける。
自分がこんな不衛生なところに抵抗なく座る日が来るなんて、ほんの数ヶ月前には予想もつかなかったことだ。
大きく息を吸い込むと濁った海水の匂いにむせそうになるので、薄手のハンカチを口に当ててそっと息をつく。
夜空はガスと浮遊粒子状物質でどんより曇り、けばけばしいネオンが光化学スモッグに反射していっそう景色を見えにくくしている。
かろうじて見える星は、位置から考えてわし座の1等星アルタイルだろう。
汚染された空にわずかに瞬く星々。地下の美しい人工の夜空は数分も見ていれば飽きてしまうのに、弱々しく光る本物の方は飽きずに見つめてしまうのは何故だろう。
そこまで考えて杏子はわずかに苦笑を浮かべた。といっても、その苦笑は口角が1、2ミリ上がった程度の微かなもので、本人ですら気づかないようなものだったが。
------どうかしている。こんなことを考えるなんて。
目を閉じて、瞼に指先をあてる。地下で育った杏子に、地上の大気はたまに痛みをもたらす。
------この数週間いろいろな事があったから、少し疲れて感傷的になっているのかもしれない。
杏子はそっとため息をつく。そこへ、コンコンと小さく壁を叩く音が響いた。
「お邪魔?」
ひそやかで楽しげな低い声。振り向かなくても、こんな風に杏子に声をかけてくる相手なんて一人しかいない。
無言を肯定ととったのか、それとも始めから返事なんて聞く気がないのか、湿った床を気にするそぶりもなく、洋一は猫のような身のこなしでするりと杏子の隣に腰を下ろす。
洋一はいつも気配がない。いつでも音もなく近づいてきて、1メートルくらい手前で律儀に手近なものをノックする。それは壁だったり、机だったり、空き箱だったりして、でも決して突然真後ろから声をかけるような無遠慮な事はしない。
よくわからない人だと思う。人の返事なんて聞かずにさっさと近づいてきて、でも律儀に人ひとり分のスペースを開けて座る。気まぐれに好き勝手に振舞っているようで、相手が嫌がるような事はしない。
「ホンモノの空が珍しい?」
笑いを含んだ声で言って、洋一は湿った床にごろりと寝転がる。
珍しいのだろうか。杏子は自問する。
確かに本物の夜空を見たのは初めてだが、映像では何度も見たことがあるし、知識としては知っている。本物の空は映像と違ったかというとそんなこともなく、知識として知っていた通りで意外な点もなかった。
本物の空というものを実感したのは、空そのものよりもむしろ吹き抜ける湿った潮風であるとか、目を刺すメタンガスだとか、澱んだ海水の匂いだとか、そういった皮膚や五感の刺激によってだった。
しかしそれはわざわざ話す程の事には思えなかったし、そもそも杏子は主観を言葉に出す事にあまり意味を感じない。
無言のままの杏子を洋一は特に気にした風もなく、腕を枕にして薄明るい夜空を眺めている。沈黙が流れた。
「なぁ、あの星ってなんて名前?」
洋一は唐突に言って、夜空を指差した。
「ベガだと思うけど」
杏子は淡々と答える。何がおかしいのか、洋一が笑った。
再会してからの洋一は周囲の言動を面白がるかのようによく笑うが、その笑顔はなんだかとらえどころがなくて苦手だった。そうやって洋一が笑う度に、杏子はいつもわずかな居心地の悪さを感じる。
「珍しいな」
「……何が?」
洋一の言葉の意図が掴めず、杏子は仕方なくそう問う。
「『だと思う』って言い方が。断言できない理由は?」
「別に…」
杏子は言いかけて、興味津々といった表情の洋一を見て言葉を止める。
「……季節と位置と明るさから考えて間違いないとは思うけど、私が見た資料は20年も前のものだし、意識して夜空を見たのも初めてだから……」
「なるほどね」
洋一は再び軽く笑って、夜空を見上げる。
「昔さ、星の名前には由来があるって言ってたじゃん?」
「神話のこと?」
「ああ、確かそんなやつ」
杏子はつられるように星を見上げる。
「その星はどんな話?」
「琴座は…」
言いかけて、杏子は咳込んだ。重さを感じさせない動作で洋一が起き上がり、傍らから何か掴んで杏子の前に差し出す。
咳込みながら目で追うと、洋一は手の中のボトルを捻って、プラスチックのキャップを外した。
「ほら」
差し出されて、杏子はそのボトルに口をつける。咽喉を流れていく水は匂いもくせもなく、飲みやすかった。
「未開封ミネラルウォーター。ちなみにここでは高級品」
にやりと笑って、洋一は杏子の目を覗き込む。
「お代は経費でつけとくから」
杏子は無言で水を飲み込み、ほっと息をついた。
「……ありがとう」
ミネラルウォーターなんて、地上で見たのは初めてだった。もちろん高級品なのだろうし、きっと手に入れるのも難しい品物だ。地上に来たばかりの杏子にだって、それくらいの予想はついた。
「どういたしまして」
洋一が笑う。いつもの笑い方と違う気がした。
なんだかほっとして、杏子は洋一を見上げる。
「さて、そろそろ中入ったら?気管支炎にでもなられちゃ困るし。どうせ中も空気が汚れてんのは同じだけど、外よりはマシだしさ」
杏子が小さく頷くのを確認して、洋一は立ち上がって扉を引く。杏子はミネラルウォータのボトルの蓋をしっかり閉めてから、ゆっくり立ち上がった。
<<FIN>>
■「夜空」補足■
時間設定は、杏子が地上に上がってきて一週間後くらい。
杏子は10年ぶりに再会した洋一の変貌に戸惑い気味だが、洋一がよくわからない性格というよりも、単純に杏子の観察眼とかコミュニケーション能力が足りてないだけだったり。
たぶん洋一的には自分がそんなに変わったとも思ってないし、10年ぶりに再会した変わり者の知り合いがおもしろくてしょうがない感じ。