−地平線−後編

作:央野マヨコ

 
 泣いている・・・・・。

 景麒はもうろうとした意識の中で考えた。
 黒い靄のようなものが視界でゆらゆらと揺れ、それはしだいに女の形をとった。
 長い黒髪を振り乱して泣く女の影・・・・・・・・・。
 真っ赤に充血した瞳からは涙があふれ、もつれた髪が額にはりついている。

「わたくしをただの娘にかえして!」
 悲鳴のような叫びが耳の奥から消えない。
「わたくし、王になんかなりたくなかった・・・・。家に帰して!」
 細い肩をふるわせて泣く景王の前で、景麒はなすすべもなく立ちつくすしかない。
「こんな所いや・・・。帰りたい・・・・」
 顔をおおった手のひらの隙間から、涙がこぼれる。
「・・・お母さん・・・・」
 景麒はふと目を見開いた。
 つぶやく景王の姿に、遠い遠い国の小さな同胞を思い出す。

 主上も・・・・さみしいのだろうか・・・。

 景麒は景王の細い肩を、いつか幼い麒麟にしたように抱きよせた。
 景王は驚いたように身をすくめたが、やがて景麒にすがってすすり泣いた。

 景王が泣き疲れて静かになるまで、景麒は黙って景王に身を寄せていた・・・・・・・・。

 

 
 目を覚ますと、そこは見慣れた自室の牀榻の内だった。
 
  夢・・・・・・。
  
 景麒は気だるく身を起こす。
 
 なつかしい夢だ。
 まだ景王が王位について三年とたっていなかった頃の。

 景麒はため息をついた。

 景王の意図がわからない。
 景王は、なぜあんな真似をしたのだろう。
 景麒のことがきらいというのなら理解できるが、さっぱりわからない。

「あ、お、お目覚めですか?」
 緊張した声が、景麒の思いをさえぎった。
「私はどれくらい眠っていた?」
 まだ鈍い痛みの残る頭を降って、景麒は牀榻から出る。
「半日ほどです」
「そうか・・・」
 景麒は目を閉じてぐったりと榻(ながいす)にもたれた。
 ひどく気分が悪かった。
 血の匂いに酔った時のような吐き気がまだ治まらない。

「台輔、お加減でも・・」
「水をくれ」
「は、はい!」
 あわてて水を取りにいくその横顔は、まだ若い。
 それも道理、半年前に城にあがったばかりの、つい先日まで見習いだった少女である。
 普通なら、そんなに経験の浅い女官が台輔の側付きになるなど考えられないことだが・・・・。

「あ、あの・・・」
 遠慮がちな声に、目を開ける。
 先ほどの女官-----確か梨依といった-----が水差しをもって、緊張した面持ちで立っている。
「ああ」
 景麒は黙って手を差し出した。
 頭痛がひどくて、口をきくのもおっくうだった。

「あ!」
 ひどく神経にさわる音とともに、何か冷たいものが顔にかかって、景麒は目をあけた。
「も、申し訳ございません!」
 泣きそうな顔で景麒の顔をふく梨依を見やって、ため息をつく。
「もうよい。それを片付けて下がれ」
 割れた水差しの破片を指差して、もう一度目を閉じる。
 破片を片付ける音がひどく頭に響いた。
「も、申し訳ございません!」
 泣きそうな声でもう一度つぶやいて、梨依が部屋を出ていくのを、景麒は薄く目をあけて見つめた。
 哀れに思うが、気分が悪くて、やさしい言葉をかけてやる余裕がなかった。

 別に怒っているわけではない。
 経験の浅い女官の失敗は、しょうがないことだ。
 梨依には、まだ台輔の側付きは荷が重い。
 
 我知らず、幾度めかのため息がもれる。
 硝花の一件をきっかけに、景王の嫉妬は日増しに激しくなっていった。
 景麒と仲良く話していたと言っては追放、景麒がやさしい言葉をかけてやったと言っては追放、景麒のことをじっと見つめていたと言っては追放。
 
 古くからの景麒の側付きの女官や、台輔を輔佐する女官吏などは、ここ半年余りの間にほとんど追放されてしまった。
 景王の嫉妬はおさまる気配はなく、激しくなる一方である。

  このままいったら・・・・。

 景麒は目を伏せる。

  この国は一体どうなってしまうのだろう・・・・・・・・・。 

 景麒は不吉な予感を押さえることができなかった。

 


 予青六年、春・・・・・。

「台輔!主上が!」
 
 王宮によどむ怨みの気に酔って横になっていた景麒は、官吏の悲鳴のような声で体を起した。

「ああ、どうか主上をお止めください!」

 慌てて王の住む内宮へ向かう。
 景王の勅命によって尭天にすむ女は総て追放され、城には男の官吏しかいない。
 景麒や景王の身の回りの世話も、総て文官が行っている。
 女のいない城内は荒れて閑散としている。

 


「尭天に女はいらないのです。勅命に背いて残ったのは罪人、罪人を裁くのに躊躇する必要があるのですか?」
 言い放つ景王の異様な光を宿した双眸を見たとき、景麒はすべてのものが音を立てて崩れ落ちていくような気がした。

 終わりだ。

 膝から力がぬけて、金の髪が床の上に散る。

  景王は天命を失う。

 天啓のようなひらめき。
 それは予想でも予感でもない。定められた未来のようなものだ。
 
 その時景麒は、目の前に横たわるもう引き返すことのできない道を、垣間見たような気がした・・・・・・。

 

 
 予青六年、五月・・・・・・。

 景王は景麒のの牀榻入り口で、膝をついて帳(とばり)をかきあげた。
 青白い手は骨が浮き出るほどに痩せこけ、つややかだった長い黒髪も、今ではそのつやを失ってしまっている。

「景麒・・・・」
 景王はつぶやいた。
 牀榻の中は薄暗くて、景麒の顔色まではわからない。
 ただ、その頬の線が以前のやわらかさを失ってしまったことや、目を閉じて眠る顔ががひどく苦しげに歪められていることは見て取れた。

「景麒・・・」
 景麒の傍らにそっと膝をついて、冷や汗で額にはりついたその金の髪をかきあげる。
「ごめんなさい・・・・」
 景王のこけた頬を涙がつたう。

 景麒失道の報を黄医から聞いたのは十日ほど前の事だった。
 景麒の容体は急速に悪くなっていっている。
 もう二日ほど、意識を取り戻す様子がない。
 景王は両手で顔をおおった。
 牀榻の中に、景麒の苦しげな息づかいと、景王のすすり泣く声が響く。

 こんなつもりじゃなかったのに・・・・・。

 涙は後から後からあふれて、景麒の髪に、額に落ちる。
 涙が枯れるほど泣いたつもりだったのに、それでもまだ涙があふれてくるのが不思議だった。

 景麒に自分だけを見て欲しかった。
  景麒が他の女と話していると、いや、景麒が他の女を見ているだけで、不安になった。
 
 しめつけられるような不安が、灼けつくような嫉妬に変わったのはいつの日だったろう。
 毎日不安でたまらなくて、こんなに苦しむくらいなら、いっそ景麒を自分だけのものにしてしまおうと、自分以外の女など目に入らないようにしてしまおうと、そう思ったのはいつのことだっただろう。

 私は、ただ・・景麒に愛して欲しかった・・・・。
 景麒に、私だけを見つめて欲しかった・・・。

「こんなことになるなんて・・・」

 いや、このままいけばどういう事になるかくらい、どこかで分かっていたはずだ。
 わかっていたはずなのに・・、景麒が他の女といるのをみると、何も考えられなくなった・・・。

 景王は自分の被巾(ひれ)で、そっと景麒の額の冷や汗をぬぐった。
 
  このままいったら・・・、景麒は間違えなく死ぬだろう。
 そしてまもなく自分も死ぬ・・・。
 
「景麒・・・」
 景王は景麒を抱きしめた。
「あなたはわたくしのものよ・・・。離れ離れになるのはいや」
 景麒を膝の上に抱いて、景王は傍らの布包みを開いた。
「たとえほんの少しの間でも・・・、わたくしを置いていくなんて許さない」
 薄暗い牀榻の中で鞘についた宝石と、青い珠飾りが鈍く光を照り返す。
 慶国秘蔵の宝重、水寓刀。たとえ麒麟でも、切ることができると聞いた。
「離れ離れになるくらいなら・・・」
 刀をぬくと、ぞっとするほど鋭利な刀身が白く光を弾いた。
 景王は柄を握り、景麒の胸にあてた。腕が震えた。冷や汗で滑って、柄をうまく握ることができない。
「私もすぐに行くから」
 ぐっと柄を握って力をこめようとした時だった。
 景麒がかすかに身じろぎした。

「主上・・・」
 かすれた声でつぶやいて、景麒はぼんやりと景王を見つめた。
 冴え冴えと光る刀身に目をとめ、驚いたように目を見開く。
 景王は、慌てて水寓刀を体の後ろに隠した。
「あ・・・私・・・」
 景麒はじっと景王を見つめた。
「・・・遠慮なさることはない。主上のお好きなようになさればよろしい。私はかまいません。・・・もとより、なにがあろうと主上にお供する所存です」
 淡々とした声。
 相変わらずの無表情からは何の感情もうかがい知ることができない。
 景王は、なにを言っていいか分からず、黙ってうつむいた。
 景麒がかすかにため息をつく。

「・・主上、一つお聞きしてもよろしいか」
 つぶやくような景麒の声に、景王は顔をあげた。
「・・・それほどに、私をお恨みか?」
 景王は驚いて景麒の顔を見つめた。
 痛みとも悲しみともつかぬ景麒の眼差し。
 どくり、と心臓が鳴った。
 こんな時だというのに、このままこうしていつまでも見つめあっていたいと思う自分を、その業の深さを、景王は恨めしく思う。

  ・・・・・・・・胸が痛い。 
 どうすればよかったのだろう。
  見つめられただけでこんなに胸が高鳴るというのに。
 それでもやはり、この気持ちをなかったことにして、天命が尽きるまで自分の思いから目を背けていればよかったのだろうか。

「・・・あなたが憎いわ」
 景麒の顔に苦痛のようなものが浮かぶのを、景王は妙に冷静な気持ちで見つめた。

  傷つけばいいのだ。
 無口で、無愛想で、冷たくて、いつだって私の気持ちになんか気付いてくれない。
 自分一人が被害者のような顔をして、私がどんな思いでいるか、景麒の一挙一動にどれだけ心を乱されるか、ちっともわかっていないのだ。

「・・・・申し訳ないことをしたと・・思っています」
 しぶしぶと、景麒が口を開いた。
「主上を王にしたことが、間違っていたとは思いません。私は慶国のために、主上を選んだ。主上のほかに景王になれる者はいなかった。・・・しかし、そのために主上の一生を狂わせてしまった・・」
 目を伏せると、紫の瞳に淡く透けるまつげが影を落とす。

「私が選ばなければ、主上はささやかでも幸せに暮らせたかもしれない。・・・私を斬って、主上のお気持ちが和らぐなら・・・」
「幸せ?幸せですって?」
 くすくすと、知らず笑みがこぼれる。
「主上?」
「わたくしの幸せはね、景麒、あなたといることよ」
 驚いたように目を見開く景麒のその横顔が愛しくて、景王はぎゅっと手を握り締めた。

  愛しくてたまらない。
 その紫の瞳も、冷たい眼差しも、薄い唇も、白い肌も、細い指も・・・・・・。
 何もかもが愛しい。
 
  そしてその・・・・。
 
 景王は景麒の金の髪を一房取ると、頬をすりよせた。
 
  金の髪も・・・・。

「あなたが憎いわ」
 もう一度ささやいて、そっと景麒の頬を両手で包みこむ。
 いつもは冷たいその白い肌も、熱のせいかどきりとするほど熱い。

「あなたといると、胸が高鳴って破れそうになる。あなたの言葉に振り回されて、あなたの行動におびえて、あなたの眼差しに縛られて、うまく息ができなくなる。だから嫌い」
 
 景王は景麒の袍の合わせ目に指を差し込むと、そっと押し開いた。
 ゆっくりと幾重もの絹をかき分け、汗ばんだ白い肌に指を這わせる。

「一人でいると、会いたくて会いたくて胸が押しつぶされそうになる。あなたが他の女といるのをみると・・・苦しく・・・て・・・!」
 
 じわり・・と景麒の白い肌に血が滲んだ。
 景王は血で赤く染まった自らの爪をそっと口に含む。

 磨きあげられたきれいな爪。
 美しく結い上げられた髪、たくさんの珠飾り・・・・。
 どれも私の望んだものではない。
 
 私の望んだ幸せは・・・・。

 野で草を摘み、糸を紡ぎ、機を織る。小さな美しい村。
 とくに取り柄があるわけではないが、やさしくて誠実な夫。子供達・・・・・。
 永遠に失われてしまった未来。
 
 でも、もうそんなものが欲しいとは思わない。
 私はもう知ってしまったのだ。
 あふれるような愛しさと、押しつぶされるような苦しみを。

「わたくしの喜びも苦しみも、・・・愛しさも、みんなあなたのものよ。わたくしを幸せにするのも、苦しくさせるのも、みんなみんな・・・!だからあなたが憎いわ」
 殺したいほどの憎しみ。殺したいほどの愛情。
 どちらも本当だった。

「愛しているわ。景麒」

 涙があふれた。
 景麒の腕がゆっくりと上がり、細い指がそっと景王の涙をぬぐう。
 景王は、取り澄ました顔にわずかに当惑のようなものを浮かべて自分を見つめている景麒を見つめた。
 流れ落ちる涙で、景麒の顔が霞んで見える。

 不器用な・・やさしい景麒。
 もし景麒が見かけ通りの冷たい、冷酷な人間だったら、その無表情の下の不器用な優しさに気付かないままだったら、こんな思いに苦しむことはなかったのにと思う。

 愛しさがあふれる。

 愛しい人の、ほんの少しの優しさに触れただけで、こんなに幸せになってしまう自分が哀れで、自分を気遣ってくれる景麒の気持ちがうれしくて、涙がとまらない。
 この幸せを失うくらいなら、なにを引き換えにしてもいいと思う自分は、景麒への思いに囚われて、もうおかしくなってしまったのだろうか・・・?

「離さないわ、景麒」

 予王は、はだけた左胸の心臓のあたりにそっと指を這わせた。
 指先に、かすかに景麒の鼓動が感じられる。

「あなたと離れるなんていや。他の誰かのものになるなんて許さない」

「・・愚かな・・・・」
 つぶやいて、景麒は苦しげに顔を歪めた。
 景麒のこめかみを汗が伝うのが見えた。熱のためか、その体は小刻みに震えている。

「何度も申し上げたはずです。私は主上のもの。他の誰かのものになるなど・・・・・」 
「私が死んだら、あなたは新しい王を選ぶでしょう?」
 景麒の目が見開かれ、次に傷ついたようにゆがむのを景王はひどくせつない思いで見守った。
「主上・・・、私は・・・」
 つぶやいて景麒が目を伏せる。
 困惑と痛みと悲しみ。

 ・・・・ずるいわ。
 
 景王はきゅっと唇を噛み締めた。いつだって、あなたの言葉に傷つけられるのは私のはず。
 あなたが私を置いていくのに、あなたが私から離れていくのに、どうしてそんなに傷ついた顔をするの?
 私を置いていくのは・・・あなたなのに・・・。

「・・・ならば、私を殺せばいい・・・・・・」
 無表情につぶやいた景麒の、悲しい瞳。
「それが主上の望みなのでしょう?そうすれば、私は永遠に主上のものです。・・次の王を選ぶこともない」
「・・・景・・麒!」
「王と心中するなど・・・、麒麟にとっては幸せな死に方かもしれません」
 かすかに微笑んだ景麒のその笑みを、冷たいその眼差しを、景王はひどく悲しいもののように感じた。

 ・・・悲しんでいる。
 景王は不意に強く、そう思った。

 景麒は悲しんでいる。
 嘆くのでもなく、怒るのでもなく、自分を哀れむのでもなく、まして恨むのでもなく。
 それはとても景麒らしい在り方のように思えた。

「さぁ・・・、主上・・」
 景麒がゆっくりと目を閉じる。
 涙があふれた。 

 私は狂っている。
 
 景王は水寓刀をゆっくり引き寄せた。

 天命に背き、理に背き、国に背き、愛しい人を道連れにしてまで、私は何を望むのか。
 国を傾けてまで、私は何を望んだのか。

 ・・・・国中で怨唆の声が聞こえる。
 金波宮中に、怨みの気が充満している・・と景麒がいつか言っていた。
 
 私の望んだことは許されないことだったのだろうか。
 私はただ、景麒と一緒にいたかった。景麒に愛して欲しかった。
 ・・・・景麒に、私だけを見つめて欲しかった。
 私の望みの、どこまでが許されざる罪だったのか。
 麒麟を愛してしまったことが罪だというなら、私の罪はいつから始まっていたのだろう。

 景王は、景麒のはだけた胸の心臓の位置で、水寓刀を構えた。
「愛しているわ、景麒」
 震える腕に、力をこめる。
 切っ先が滑って、上気した白い肌に紅い血がひとすじ流れた。
「・・・・っ!」 
 顔をしかめて、景麒が体をこわばらせる。

 ・・・・窓から差し込む月の光が、景麒の姿を青白く染めた。 
 血の気の失せた白い肌、冴えた薄い金の髪、胸につたう血だけが、はっとするほど紅い。

 さらに、二すじ、三すじと、刃が白い肌を切り裂いた。
「・・・・・!!」
 景麒が唇を噛み締めて、もれそうになるうめき声を押し殺す。
 景王のこめかみを、汗がつたう。
 腕が震えて、うまく力をいれることができない。

 ・・・だめだ・・。もっと・・・、一回で終わるようにしないと・・・。

 気ばかりがあせって、景麒の肌に幾すじもの傷をつける。
 景麒が苦しげにあえいだ。
 泣きたくなるような思いで、景王は刀のつか柄を握り締める。
 ひやりとした冷たい手がその手に重ねられた。

「主上・・・」
 つぶやいて、景麒は苦しげに半身を起こした。
 壁にもたれて、大きく息をつく。
「私にお命じください」
 かすれた声。
「主上を殺して・・・・、その後自らの命を絶てと」
「・・・ッ!!」
 景王は息を止めた。
 声もなく、ただ景麒の顔を見つめる。
 景麒は、かすかに笑ったようだった。

「麒麟は、どんな命令であろうと決して王に逆らうことはできない。・・・そういう生き物です。・・・そうすれば主上が御手を汚されることもない」
「私と、死んでくれるの?」
 涙があふれる。
「主上の・・・・お望みとあらば」
「私を殺せば・・、景麒はその血でもっとひどく病んでしまうわ」
「・・・・それでも、近くの窓から身を投げる時間くらいはありましょう」
「・・・景・・麒・・!」
 景王は力いっぱい景麒に抱きついた。両腕を景麒の背にまわして、きつく抱きしめる。

「愛してるわ・・・」
 血だらけの胸に顔を埋める。
 めまいがした。

「主上・・・」
 景麒がそっと景王の背に腕をまわした。
「これだけは覚えていていただきたい。何があろうと、王と離れたい麒麟などおりません」

「景麒は・・っ!」
 景王は顔をあげた。
 すがりつくように、強く景麒を見据える。
「景麒は私と離れたくない?私と一緒にいたい?」

 気が遠くなるような一瞬・・・・。

 景麒は余計なことを言ったとでもいうように、ばつが悪そうに目を逸らした。
「・・・・はい」
 しぶしぶとでもいうように口を開く。

 景王は、もう一度景麒を強く抱きしめた。
 涙がとまらない。
 いつの頃からか胸の奥にずっと詰まっていた重いものが、突然なくなったような奇妙な気分だった。

「景麒・・・」
 つぶやいて、景王は景麒を見つめた。
 景麒が自分を見つめている。その瞳の奥に、自分が映っているのが見える。

 国を傾けてでも・・・手にいれたかったもの。

「愛しているわ、景麒」
 もう一度言って、景王は景麒の唇に、そっと自分の唇を重ねた。
 景麒が目を見開く。
 一瞬だけの、触れるようなくちづけ。
 目を見開いたまま、困惑したように自分を見つめる景麒に、景王は微笑みかけた。
「景麒。私、幸せよ」

 すべてに背いて、私が望んだもの。
 私は手にいれた・・・。

「あなたに会えて・・・、あなたを好きになってよかった」
 景麒の顔に、わずかに安堵のようなものが浮かぶ。
 その体がぐらりとかしいだ。

「景麒?」
 慌てて景王がその身を支える。
 熱のせいか、その体も、慌てて手をやった額も燃えるように熱い。
 額に触れた手が、景麒の脂汗でずるりと滑った。

「景麒!!」
 
 景王の腕の中で、景麒はゆっくりと意識を失っていった・・・・・・。

 

 
 景麒が次に目を覚ましたとき、景王の姿はどこにもなかった。

 王気が・・・絶えている。

 身内にぽっかり穴があいたような喪失感がある。
 この間までの気分の悪さが、嘘のようになくなっているのも気になった。
 
 慌てて自室を出て内殿に向かい、景王が蓬山に登って退位を願い出たと聞いたときのあの気持ちは、今でもはっきり覚えている。

 一週間くらい、何も喉を通らず、何かをする気力もなくすごした。
 いろいろなことを考えた。
 
 景王は、景麒にとって自分は幾人もの王のうちの一人にすぎないのだろうと言った。もし自分が王じゃなかったら、景麒は自分のことなど好きにならないだろうと。
 それはある意味真実だ。
 麒麟にとって自王より大切なものなどいない。

 しかし、景王には、麒麟の王に対する思いなど分からない。
 麒麟は王を選ぶためにのみうまれてくる。
 王を選べなかった麒麟ほどみじめなものはないし、王を選べない麒麟など何の価値もない。
 王は麒麟のものではないが、麒麟は王だけのものなのだ。
 
 麒麟が王に対してどれほどの思いを抱いているか、どれほどの思いで王が現れるのを待っているか、麒麟以外のものには決して分からない。
 
 王を選んだ麒麟は、王のすべてに縛られる。
 王の言葉、王の考え、王のまなざし、すべてに囚われて決して逆らうことができなくなる。
 王にどんな仕打ちをされても憎むことができない。
 それほどに強い思いなのだ。
 王の麒麟に対する思いは。

 ・・・・なにが不満だったのですか?

 景麒は心の中でつぶやいた。
 私は身動きがとれないほど主上に囚われていたというのに。

 それでもやはり、王だから、という言葉がつく以上、この思いは純粋ではないのだろうか。
 王と運命をともにしたいと思うほどでも・・・。


  -------『離さないわ、景麒』。

 景麒は窓の外に広がる雲海を・・・、その向こうにあるはずの蓬山を振り返った。

「愚かな方だ・・・。麒麟は王から離れることなど出来はしない。いつだって、麒麟を置いていくのは王の方なのに・・・」

 

 
「なんだ。おまえまだこんな所にいたのか?」
 あきれたような声にはっと景麒は我に返った。
 振りかえると、陽子が首をかしげるようにしてに戸口に立っている。

「どうした?ぼけっとした顔をして」
「たった今、夢からさめたようなお顔ですわよ、台輔」
 クスクスと笑い声がして、祥瓊と鈴が陽子の後ろから顔を出す。
「今、ちょうど台輔のうわさをしていたところでしたのよ」
 ふふっと微笑んで祥瓊が鈴と目を見交わす。
「私の?」
 景麒は眉をひそめた。
 先程の事かと思ったが、それにしては好意的なので、さっぱりわからない。

「陽子が大まじめな顔で、麒麟は額だけじゃなくて、たてがみを触られるのもいやがるんだなっていうから・・・」
 鈴がふわりと笑う。
「そんなはなし聞いたことないわよって」
「おまえがあんまり過剰反応するから、てっきり触っちゃいけないところだったのかと思ったら・・・」
 陽子が肩をすくめる。
 「あ、あの、あれは・・・」
 景麒は慌てて口を挟んだ。
 やっぱり誤解されてしまっただろうか。不安に胸が高鳴る。
「ああ、もういい。単におまえが髪に触られるのがいやなだけだろう?まったく潔癖性なんだから・・・」
 ため息まじりにいう陽子を、景麒は一瞬きょとんとして見つめた。

 ああ、この人は違う。
 ほっとため息がもれる。
 
  何もかもを疑って、自分の中に閉じこもってしまったあの方とは違う。
  天命を受け入れることができずに、ただ嘆き悲しむだけだったあの方とは違う。

 大丈夫だ・・・・・・。


 ふと景麒を見た鈴は、驚きに目を丸くした。
 景麒は、知らず微笑んでいた・・・・。

 

<終わり>