−地平線−前編

作:央野マヨコ

 
 髪に触れようとした景王陽子の手を景麒は思わず振りはらった。
 パシリ、と軽い音がして、陽子が驚いたように目を見はる。

「・・・悪い。気に障ったか?昔、景麒みたいな髪にあこがれていたなぁとおもっ て。私の髪はこんなだから」
 言って、陽子はくせのある緋色の髪を引っ張る。
「い、いえ。そういうわけでは・・・」
 景麒は当惑したように目を伏せた。何か言わなければならないのはわかっているのだが、何と言っていいのかわからない。
 自分で自分の行動に驚いていた。
 決して王を嫌っているというわけでも、王に触れられるのがいやというわけでもない。本当に反射的な、無意識の行動だったのだ。
 何か弁解しなければ・・・、と思う気持ちだけが空回りしてゆく。


「悪かったな、景麒。これからは気を付けるから」
「あ・・・・・・」
 陽子が姿を消しても、しばらく景麒は扉のほうをじっと見つめていた。
 何で自分はこうなんだろう・・・。
 苦い後悔がある。
 いつも肝心なときに肝心な言葉が出ない。
 主上は誤解しただろうか。
 気分が重く沈んでゆくのがわかる。
 本当に、触れられるのがいやだったわけではないのだ。
 う つむくと、淡い金の髪がさらさらと肩をつたって額にかかった。

・・・・・きれいな髪ね、景麒・・・・・。

 なつかしい声が聞こえる。
 景麒は紫の瞳をかすかに見開いた。
 まだ私は忘れていないのか・・・。愕然とする思いがある。

 予王の・・・・、景王舒覚の手を・・・・・。

 

 
「きれいな髪・・・・。わたくし、景麒の体の中でこの髪が一番好きだわ」
 かすかに頬を染めて、うっとりと景王舒覚がつぶやいたとき、景麒はなぜかぞくりとしたのを覚えている。
 それは今まで景麒を疎み、時には憎んでるようなそぶりさえ見せていた景王の変わりように不安を覚えたからなのか、それとももっと別の何かだったのか景麒にもわからない。
 ただ、なにか体の奥深くに眠るものが、鋭く警告を発したのだ。
 今思えば、それは、王を選び、王と運命を共にし、天命を体現する麒麟としての、本能のようなものだったのかもしれない。

 なぜなら、その頃から、最初は少しずつ、そして徐々に加速度をつけながら、景王舒覚の玉座は急速に傾いていったのだから。

 

 
「景麒、これを着てくれるかしら」
 少し恥ずかしそうに、しかし幸せそうに頬を染めて景王が見事な織の袍を差し出したとき、景麒は正直面食らった。
「私に・・・、ですか?」
 念を押してからそのに目を落とす。職人芸とまではいかないまでも、しっかりとした織の布地といい、金糸銀糸をふんだんにつかった豪奢な刺繍といい相当に手の込んだ品である。

「・・・これは主上が?」
「いつも景麒には苦労をかけてばかりだから・・・」
 はにかんだような微笑み。
 景麒はうるみそうになった瞳を慌ててしばたかせる。
 その時になって景麒はようやく理解した。
 自分はこれほどまでに辛かったのだ。
 たった一人の主に疎まれていることが、嫌われていないと知ってうれしくて泣きたくな るほど辛かったのだ。

「・・・気に入っていただけたかしら」
 不安げな景王の声。
 景麒は主をしみじみと眺めた。
 白い肌に、長い黒髪。少女のようにきゃしゃな体つき。憂いをおびた顔つきに、いつもどこか遠くを見つめているような眼差し。

・・・・・お痩せになられた・・・。

 登極した直後の、どこか幼さを残した線はもう失われてしまっている。

・・・・やつれたというほどではないが。

 私は景王の幸せを奪ってしまったのかもしれない。
 景麒は苦い思いを噛み締めた。

  しかし、景王は一人しかいないのだ。
 彼女がどんなに王座を嫌っていても、彼女が王であることは動かしようのない事実なのだ。
 彼女のほかには誰も、景王にはなり得ない。
 王になった以上、彼女には王としての責任を果たす義務がある。
 彼女には酷なことかもしれないが、甘やかすわけにはいかないのだ。

 「主上、お気持ちはありがたいが、あなたはこのようなものを作っている暇はないはずです。私にすまないと思われるのでしたら、せめて朝儀だけでもお出ましください」 
「・・・・・・・・・」
 幸せそうだった景王の顔が、一瞬はっとしたように目を見開き、ついで、しだいに悲しげに歪むのを、景麒は痛みと共に見つめた。
「わたくし・・・、王になんかなりたくなかったわ」
 かみしめるようにつぶやいて、景王は身をひるがえす。
 景麒はため息をついた。

 ----これでよかったのだ。 私は正しいことをした・・・はずだ。

 景王の悲しげな顔が目に浮かぶ。
 景麒はもう一度ため息をついた。

 

 

 
 それは景王が即位して三年目の夏のことだった。
 景麒が景王に呼ばれて景王の自室でお茶を飲んでいると、景麒つきの女官である硝花が、青ざめた顔で飛び込んできた。
「どうした?」
 答えず、硝花は景王と景麒の前で平伏した。
「申し訳ございません!」
 さらに額を床にすりつける。
「私・・・、私・・・・!」
 語尾が震える。

 またか・・・・。景麒は小さくため息をついた。
 この女官はよく気が付くし、物覚えもいいのだが、いかんせんそそっかしすぎる。 
 年じゅう物を壊したり、食べ物をこぼしたりしては叱られている。
 つい先日も、景王のお気に入りの壷を割って王の怒りを買ったところだったのだ。
 あのときは、景麒の側つきから降格すると王が言ったのを、景麒がかばって何とかおとがめなしですんだのだが、今回はどうか。
 気が利くし、気立てもよいので、景麒は気に入っているのだが。

「どうした、申してみよ」
 景麒が重ねて問うと、硝花は今にも泣き出しそうな顔で景麒を見つめた。
「あ、あの・・・、先日台輔が主上か賜った袍に、あの、香をたきしめようとしたら・・・、あの・・、焦がしてしまって・・・・、申し訳ありません!」
 額を床にこすりつけて、深く平伏する。
「・・・・・・・」
 景麒は深くため息をついた。
 よりにもよって、一番大切な衣を・・・。
 苦々しい思いで唇をかみしめる。

 あの袍は景麒も大切にしてずっと保管しておいたものだった。
 恐れ多いので、まだ一度も袖を通していなかったのだが・・・・。

「・・・焦がしてしまったものはしょうがない。これから気をつけよ」
 景王に向かって深く頭を下げる。
「申し訳ございません。せっかく頂いたのに、私の管理が行き届かずに・・・・」
「なぜ景麒があやまるの?」
 景麒がはっとするほど、堅い声だった。
「・・・なぜといわれましても・・・」
 景麒は当惑した。
「硝花がそそっかしいのは前々から知っていたことですし、こうなることは当然予想できたことですから・・・」
「だからって、景麒が悪いということにはならないはずだわ」
 きつい声。
 景麒はますます当惑した。

「硝花とて焦がしたくて焦がしたわけではありませんし、硝花にそんな大切な仕事をまかせた私が・・・」
「悪いのは硝花だわ!」
 たたきつけるように、景王は景麒の声をさえぎった。
 硝花がびくりと身をすくませる。
「硝花がやったんだから、硝花がつぐなうべきだわ!」
「しかし・・・・」
 言いかけて、景麒は景王の激しい眼差しにであって言葉をのみこんだ。
 思わず景王の眼差しから目をそらす。

「硝花は景麒の側つきから降格して奚(げじょ)にします」
「主上!」
 景麒は思わず声をあげた。硝花が悲鳴のような声をあげて泣き崩れる。
「厳しすぎます!奚とはあまりにも・・・!」
 奚とは王宮で働く婢(はしため)である。
 下官ですらなく、仙籍を持たない。
 硝花は女官の中でも位の高い宰輔の側つき、それも直接宰輔の身の回りの世話をする名誉ある役職に就いている。
 当然仙籍も持っている。
 奚に降格されるということは、仙籍を剥奪され、いっきに女官から奴隷同然の身分に落とされるということだ。

「明日付けで降格するから、それまでに身辺の整理をしておきなさい」
「主上!」
 景麒は慌てて部屋を出て行こうとする景王の前に立ちふさがった。
「厳しすぎます。臣下を裁くときには情けを持って・・・」
「情けはもう充分にかけたわ」
「仁道に限りなどありません、情けに充分などということはないのですよ!」
 景麒は紫の瞳に力を込めて、景王を見据えた。
「どうか寛大なご処分を。お願いいたします。民に仁道を施すのが王たるものの勤めでございましょう。・・・・硝花」
 景麒は蒼白な顔で成り行きを見守っていた硝花を振り返った。
「そなたももう一度主上に謝罪せよ」
「・・・・は、はい!」
「・・・なぜそんなに硝花をかばうの?」
 つぶやくような景王の声は、何か異様なものを含んでいた。
 景麒は驚いて顔をあげる。
「は?あの・・・」
「なぜ硝花のことになるとそんなに一生懸命になるの?」
「主上・・、何を・・・」
 景麒は面食らって景王を見つめた。
 景王が何をいおうとしているのかわからない。

 確かに大切な衣を焦がされたのは悲しかったが、硝花が故意にやったのではない以上仕方のないことだ。
 硝花を責める気はないし、これがほかの誰かでも景麒は同じ行動をとっただろう。
 そして何より、王が間違った行動をとったら、これをいさめるのは麒麟として当然の行動である。

「麒麟は王のために存在するはずでしょう?なぜ硝花ばかりかまうの?わたくし、あなたに着てもらおうと思って一生懸命織ったのよ?なのにそれを台無しにされてなぜ硝花を罰してはいけないの?なぜ!」
「主上・・・、それとこれとは・・・」
「違わないわ!・・・硝花のことが好きなのね」
「主・・・」
 景麒は言葉を飲み込んだ。

 景王は青白い顔をさらに蒼白にして景麒を見つめた。いつもは生気のない瞳はらんらんと暗い光を放ち、長い黒髪が乱れて頬にふりかかっている。
「硝花のことが好きなんでしょう?だからそんなにかばうんでしょう?」
「・・それは、よく気が付くし、気立ても・・・」
「そんな事言ってるんじゃないわ!」
 景麒はすっかり混乱してしまった。
 確かに硝花は女官の中では気に入っているが、公私を混同するほど自分は愚かではない。
 自分はただ、王に仁道をもって人を裁いて欲しいだけだ。

「主上・・」
 口を開いてはみたものの、何をいうべきか見当もつかない。
 だいたい王がなぜ怒っているかもわからないというのに・・。
 袍を焦がされてくやしいのはわかるが、硝花のせいではないのだからしょうがないことだ。
 硝花は自分の側つきの侍女なのだから情が移るのは当然だし、だいたい気に入ってなかったら侍女になどしない。
 まったく一体なんだというのか。

「・・奚など生ぬるいわ。硝花を尭天から追放します」
 景麒は一瞬、ぽかんと景王を見つめた。
「宰輔を誘惑して、意のままにあやつろうとした罪は重い。国に悪影響が出ないうちに宮から追放します」
「主上!なにを・・」
「おだまりなさい!わたくしが王です。これは勅命です!」
 景麒は呆然と立ち尽くした。
 王がこう言った以上逆らうことは許されない。
 なぜこんなことに・・・。
 未だ混乱したまま、景麒は何か不吉な予感のようなものを感じていた。


 
「きれいな髪・・・」
 きゃしゃな手がゆっくりと景麒の髪をすく。

 絹や錦を幾重にも重ねた豪奢な帳(とばり)。羽毛入りの暖かい衾褥(ふとん)。
 壁や天井に一面ほどこされた金や宝玉の細工。
 王宮の最奥部にある景王の牀榻(しょうとう)である。

 景麒は牀榻の入り口でひざまずいたままため息を落とした。
 牀榻の内から伸びた景王の手が、なおも景麒の髪をもてあそんでいる。

 景王が自室の牀榻から出てこなくなってもう十日。
 最近、政務を疎んで自室にこもりがちだったが、さすがに牀榻から出てこないなどということは初めてだった。
 女性の牀榻・・ということで最初は遠慮していた景麒だったが、5日過ぎ、6日過ぎするとさすがに放っておくわけにもいかない。
 ここ三日ほどは牀榻の入り口で懸命に説得を続けていた。

 「主上・・。いい加減に内殿にお越しください。もう十日も政務をお執りになっていないのですよ」
「知らないわ」
「主上!」
 牀榻の厚い帳の奥で、影が身じろぎし、白い腕が帳をかき上げた。
 景麒は息をのんで、被衫(ねまき)を着たまま、髪をしどけなく乱している景王を見つめた。

「景麒、こちらに」
「・・・しかし」
「来て」
「・・・御意」
 景麒はしぶしぶ薄暗い牀榻の内に足を踏み入れた。
 膝をついて、おそるおそる景王の側ににじり寄る。
 官服の裾が乱れ、膝裏に届くほどの髪が衾褥の上に散る。

「景麒・・・」
 景王はどこか憑かれたような表情で、景麒の髪に手を伸ばした。髪を一房取って頬をすり寄せる。
 景麒は口を開きかけ、また口を閉ざした。
 瞳に困惑をあらわに浮かべて、景王を見つめる。
 景王は景麒のこめかみに指を滑り込ませると、どこか遠慮がちに景麒の頬に触れた。
 一瞬、驚いたように手を放し、再び触れる。

 景麒は景王の手が自分の顔を愛撫するのを、なすすべもなく見つめていた。
 頭の中で何かが渦巻いてはまた散って、考えがうまくまとまらない。
「景麒・・・」
 景王は思い詰めた声でつぶやくと、景麒の胸に顔をうずめた。
 驚いて硬直したまま動けないでいる景麒に、さらに身をすり寄せる。
 景麒は、体をかたく強ばらせたまま動けない。

 生を受けて二十と数年になるが、このような目にあったことなどないし、女怪も女仙もこのような時にどうすればいいかなど教えてくれなかった。
 居心地が悪くて景王の手を払いのけたい気がするが、さすがにそれをしてはいけないと思うだけの分別はある。

「・・・景麒は私と一緒にいて楽しい?」
 景王は景麒の胸に顔をうずめたまま、静かにたずねた。
「・・主上・・・」
 驚いて目を見張る下僕に景王はなおも続ける。
「景麒は私と一緒にいると、いつもつまらなそうな、不満そうな顔をしているわね。私といるとつまらない?」
「そんな・・・」
 景麒はかすかに身じろぎした。
「王と一緒にいて嬉しくない麒麟などおりません」
「そんなことを聞きたいのではないわ」
 景王は泣きだしそうな瞳で景麒を見上げた。

「あなたにとって私はなに?ただの主人にすぎないの?・・・きっとそうなのでしょうね。・・私は・・・私は・・・あなたのことが・・」
 悲しげな瞳から涙があふれ、景王は景麒の胸にきつくとりすがった。
「私、あなたのことが好きよ。あなたさえいてくれれば、私・・・。他にはなにも・・・」
「主上・・・」
 景麒はただ、つぶやくことしか出来ない。

「景麒は?わたくしのことが嫌い?」
「王が嫌いな麒麟などおりません。その王にどんな仕打ちをされても、たとえ殺されても嫌う事が出来ないのが、麒麟という生き物です」
「景麒はわたくしが王だから特別なのね・・・」
 悲しげな景王のつぶやき。
「主上・・そのような・・」
 景麒はため息をついた。
 もともと女子供は苦手なのだ。思い込みは激しいし、何かというとすぐ泣くし、まったく手におえない。

「・・・わかっているわ。景麒にとって、私は幾人もの王の一人に過ぎないことなど・・・。でも・・・」
 景王は、すっと景麒の額に手を伸ばした。
 とっさに身を引こうとした景麒の髪を強い力でつかむ。

「・・主・・っ!」
 払いのける事も出来ずに景麒は主を見上げた。
「黄医が言ってたわ。麒麟は王が命じれば決して逆らえない生き物だって」
 景王はそっと景麒の額の髪をかきあげた。
「動かないで!」
 顔を背けようとした景麒に、鋭く命じる。
 景麒は目を見開いたまま動けない。

「額は麒麟の急所って本当?女官が、景麒は髪を梳く時でも決して額に触らせないって・・・」
 そっと額の中央の突起に触れる。
 びくり・・、と景麒は硬直した。
「主上・・」
 景麒はあえいだ。痛みと目まいで焦点が定まらない。
 すっと体温が下がって、全身から冷や汗が吹き出る。
 ひどい耳鳴りがした。
 体中から力が抜けて、崩折れそうな気がするのに、体は硬直していて動く事が 出来ない。
 景麒は激しく息をついた。
 息苦しくて、言葉を発する事が出来なかった。

「景麒・・・。わたくしは幾人もの王のうちの一人になるのなんて嫌。たとえ憎まれても・・・、あなたの中にわたくしの存在を刻み付けておきたい・・・」
 景王の声が、近く、遠く、頭の中で響く。
 冷や汗と、苦痛のあまり瞳からあふれ出た涙で、景王の姿が霞んで見えない。
景麒は必死の思いで景王の衣をつかんだ。

「・・主上・・どうか・・」
 声はかすれて、ほとんど音にならなかった。
 王の言葉に縛られて、どうしても景王の手を振りはらうことが出来ない。
「・・お許しを・・・どうか・・」
 ひどい痛みと息苦しさで、意識がもうろうとかすむ。

 ややして、景王の手が額から離れたのを確認すると、景麒の意識は闇にのまれた・・・・。


<<つづく>>