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「つーかーれーたーー!」
執務室の大きな机の前で陽子は頬杖をついた。
「またですか?まだ一刻しかたってませんよ」
景麒はうんざりとため息をついた。陽子は字が読めないためただでさえ書類の処理が遅いのに、さらにやる気がないのでは話にならない。
「休憩、休憩!やーすーみー!」
だん、だん、だん!と陽子が机を叩く。
「だめです。今日の分が終ってからです」
「えー!景麒のケチ!」
「なんとでもいってください」
陽子がしぶしぶと目を書類に落とす。景麒はほっと息をついた。
目の前で主の紅い髪がかすかに揺れる。
景麒はじーんと幸せをかみしめた。
陽子と二人ですごす愛政務の時間。それが最近の景麒の密かな楽しみの一つだった。
陽子の愚痴や不平不満や小さなわがままも、自分にしか言わないことがわかっていれば愛のささやきに等しかった。
(今は主上と二人っきり・・・)
口元をゆるませてうっとりと遠くを見つめる景麒を、陽子が気色悪そうに見つめる。と、そこへ扉を叩く控え目な音が響いた。
「なんだ?入れ」
陽子が、露骨に嬉しそうな顔をして、女官を招きいれる。
「あの、主上にお客様がお見えです」
「今は政務中だ。後にせよ」
「誰だ?」
景麒の不機嫌そうな声を無視して、陽子が尋ねる。
「楽俊さまです」
「楽俊が!今行く!」
「あ、主・・・」
景麒が止めるヒマもなく、陽子は秒速で走り去っていく。
(私と主上のラブラブタイムが・・・)
景麒はこぶしを握った。脳裏に例の半獣のとぼけた顔が浮かぶ。
(おのれ、半獣!いい気になるなよ!主上の隣に並ぶのは麒麟であるこの私こそがふさわしいのだ!)
執務室で一人エキサイトする景麒の姿を、扉の影からじっと見つめる祥瓊の目に景麒が気付くことはなかった・・・。
気合たっぷりに、景気が廊下を歩いていると、屋外の露台に、見慣れた赤い髪が見えた。
「主・・・」
声をかけようとして景麒は、その隣に見知らぬ若い男が立っているのにきづいた。
(何やつ!・・いや、あれは・・楽俊?)
見慣れてないので一瞬わからなかったが、それは確かに人形(ひとがた)をとった楽俊だった。
(なぜ人形【ひとがた】に・・・、ああっ、それにあんなに楽しそうに・・)
楽俊は後ろ向きで顔は見えないが、陽子はこっちに半分顔を向けているので、その表情を見て取ることができた。
陽子が笑っている。それは景麒などには絶対見せない、自然な笑顔だった。
(主上・・・あんなに楽しそうに・・ああっ!!!)
楽俊が陽子の肩に手を置くのを見て、景麒は声にならない悲鳴を上げた。
(なんてことを!なんてことを!なんてことを!!)
袍の袖をきりきりと噛む。
(私だってしたことがないのに・・・!)
「台輔」
「ひっ!」
突然後ろから声をかけられ、景麒は飛び上がった。
振りかえると、祥瓊がにこにこと満面に妖しい笑みを浮かべて立っている。
「しょ、祥瓊どの・・」
景麒が、顔を引きつらせた。無意識に体が後ずさっている。
景麒は祥瓊が、大変苦手だった。小さいころ散々遊ばれた蓬山の女仙に似ている、というのもあるが、祥瓊がらみでろくな目に遭ったことがない、というのも大きな原因である。(『微笑みの帝国』参照)
「こんなところで、なにをしていらっしゃいますの?」
「いや、べつに・・」
「あら」
祥瓊が、露台の陽子と楽俊を見やった。
「あんな所にいらっしゃいましたのね。・・仲がよろしいこと」
祥瓊の目が一瞬妖しい光を放った。びくり、と景麒は身をすくませる。
「そういえば、主上はなにかといえば楽俊の話をなさいますのよ。・・本当に楽俊のことを気に入ってますのね」
にこにこと笑いながら、じいっと景麒の目を凝視する。
「楽俊も、人形をとっていると、なかなか主上とお似合いだと思いませんこと?」
まばたきもせずに景麒を見つめる眼差しが恐ろしい。
「い、いや、わたしは・・」
「獣の姿でいる時は何とも思いませんけど、ああしていると楽俊も立派な殿方ですのね。・・・お気を付けあそばせ。楽俊があの姿のままだと、そのうち楽俊に主上を取られてしまうかもしれませんわよ」
たたみかけるような口調に、景麒はだんだん不安になってきた。
『主上を取られる・・・』その言葉が頭の中でぐるぐる回り出す。
「あ、そういえば楽俊は、びっくりしたりして頭が真っ白になると、うっかり獣形に戻ってしまうといっておりましたわよ」
意味深な微笑を浮かべて祥瓊が去っていく。
後には、茫然と祥瓊の背を見つめる、景麒の姿があった・・。
(うまくいったわ・・)
祥瓊は一人、満足げに微笑んだ。
あれからというもの、景麒はいつも上の空でずっと何か考え込んでいる。遠からずなにか行動を起こすだろう。
(ごめんなさいね、陽子。たとえあなたといえども、楽俊を渡すわけにはいかないの)
楽俊が陽子のことを気に入っているようなのはわかっている。
でも、私だって楽俊のことが好きなのだ。陽子と楽俊が親睦を深めるのをみすみす見ているわけにはいかない。
今はまだ陽子は楽俊のことを何とも思っていないようだが、この先なにがあるかわからない。獣形でいる時はともかく、人形でいる時は特に注意するべきだった。
(景台輔、気の毒だけど、せいぜい利用させていただくわ)
自分で動いて、楽俊に悪い印象を与えるわけにはいかない。
あれだけ言っておけば、景麒は頑張って二人の間を邪魔してくれるだろう。
(後は頼みましたわよ!台輔!)
景麒の反応が余りに楽しかったので、ついやりすぎてしまったのは気になるが、後は結果を待つだけだった。
(うーん・・。やっぱりあれしかないか)
そのころ景麒は、どうやって楽俊を人形に戻すか、思案の真っ最中だった。
ここ数日間にわたって考えつづけたおかげで、壁にぶつかったり、ご飯をひっくり返したり大騒ぎだったが、ようやく作戦の目星がついた。
苦悩のあまり、その顔はやつれ、恐ろしい御面相になっている。
(頭を真っ白にするといえば・・・あれくらいしか・・・)
少々恥ずかしいが、他には思い付かない。
(実行に移す・・・か)
ここ数日間政務をサボりつづけていたおかげで、たまった書類ももう限界・・だった。
(さあ、いざ!れぇっつ・ごー、だっ)
だいぶ蓬莱の言葉に染まってきた景麒だった・・。
「主上!」
楽俊と仲良く談笑していた陽子は、気合の入った声とともに入ってきた景麒の形相を見て、思わず後ずさった。
「な、なんだ?」
じいっと二人を凝視する景麒の顔は青ざめ、金の髪がみだれて額にふりかかっている。眉間にはくっきりと縦じわが浮び、血走った目が二人を見つめている。
「たんすの中に、吐いたんス」
沈黙が満ちた。
景麒とダジャレ・・という恐ろしいミスマッチにかぱっと陽子の口が開いた。そのままがくっと顎が落ちる。
ぼんっ!と、ショックで頭が真っ白になった楽俊が獣形に戻る。
自分の作戦の成功を見た景麒は、にたぁっと満面に笑みを浮かべた。スキップしかねない足取りで、うきうきと部屋を出ていく。
部屋にいたお付きの女官が、腰をぬかして座り込む。
その後に部屋に立ちこめた長い沈黙も知らず、景麒は独りしあわせだった・・・。
< 終わり >
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