月光秘譚

作:央野マヨコ



 その日、陽子が金波宮に戻ったのは、すっかり日も暮れた時分だった。久方ぶりの王の帰還に、内殿は浮き足立つ。
 冢宰靖共をはじめ、呀峰、昇紘などの逮捕に外殿は大騒ぎだったが、その騒がしさも内殿の奥----王の寝室までは届かない。
 寝室ではここ数日の忙しさに疲れた果てた王が、ようやく戻った自分の牀榻でぐっすりと眠り込んでいた。
 
 
 そして、あたりもすっかり寝静まった夜更け……。
 
 
 陽子はふと、暗闇の中で目を覚ました。まだ醒めきってない頭で、ぼんやりと天井を見つめる。
 牀榻の中は、満月の光が差し込んでうっすらと明るい。
 
 その時、静寂にまぎれて何者かの息遣いが聞こえた気がして、陽子は暗闇の中で目を見開いた。
 耳を澄ますと、さらり・・・と衣擦れの音がして、陽子はさらに身をこわばらせる。
(誰か・…いる・…!!)
 姿勢を変えず、目だけ動かして音のした方向を見る。

「け……景麒!?」
 陽子はぎょっとして、跳ね起きた。
 虚ろな表情の景麒が、牀榻の入り口近くに座り込んでいる。
 長い金の髪は乱れてもつれ、薄手の夜着をまとったその姿は、いつもより幾分頼りなかった。
「ど、どうしてこんなところに・…??」
 混乱したまま、陽子は慌てて景麒にいざり寄った。
 怪我人を運び、さらに戦場で返り血を浴びた陽子を乗せたことで、景麒はここしばらく伏せっていたはずだった。

「主上・・・…」
 ぼんやりとした声でつぶやき、景麒はのろのろと顔をあげる。紫の瞳は、霞がかかったように焦点が定まらない。
「……もう…帰ってきてくださらないかと・……」
 言って、苦しげに息をつく。
「な、なに言ってるんだ!?だいたいおまえ、具合悪かったんじゃ………あ!」
 ぐらり・・と景麒の体が傾ぎ、その肩が牀榻の壁を滑り落ちるのと、陽子がとっさにその肩を抱きとめるのが同時だった。
「うわっ!」
 無理な姿勢にバランスを崩して、陽子は景麒ごとひっくり返る。一瞬の衝撃から我に返ると、目の前わずか数センチのところに景麒の顔があった。
 さらに、倒れこむ時に景麒を庇うような形になったため、ほとんど折り重なるような二人の姿勢である。

「う、うわわわわ…!!」
 陽子は両手をわたわたと動かした。
 最近すっかり度胸がついたとはいっても、この手の経験はさっぱりな陽子である。ぐったりと覆い被さる景麒の体をどう扱ったものか、皆目見当がつかない。
「お、おい、景麒??」
 陽子の左手は景麒の体の下敷きになっている。景麒の体は、身長の割に驚くほど軽かった。
「…景麒?」
 景麒の体は熱い。陽子ははっとした。
「景麒!しっかりしろ!!」
 身を起こして景麒を揺さぶる。景麒は目を閉じたまま、ぐったりしている。
「景麒!!」
 景麒はうっすらと目を開けた。唇がなにか言いたげに震え、眉をひそめて荒い息を吐く。
「だいじょうぶか?、今黄医を…」
 景麒をその場に寝かせ、牀榻を出て行こうとした陽子の右手を、景麒がつかんだ。
「それには、およびません…・」
 景麒の顔はほんのりと赤い。熱のせいか、切れ長の目は濡れたように潤んでいる。
「だって、おまえ…」
「主上の牀榻から黄医に運ばれたなどという醜聞を、金波宮に広めるわけには・・・・」
 不快そうに眉をひそめる景麒に、陽子はあきれてため息をついた。こんな時まで不機嫌そうなのが、いかにも景麒らしかった。
「だいたい、具合が悪いのに何でこんなところまで来たんだ?」
「それは…・・」
 景麒はばつが悪そうに目を伏せた。牀榻内に数瞬、沈黙が落ちる。
陽子はため息をついた。
「とにかくおまえは寝てろ。熱があるのにそんな薄着でふらふら出歩くなんて・・」
「とんでもありません。・・・主上の牀榻で、休む・・など・・」
 苦しげに息をつき、景麒は肩に力を込めて、頭を起こした。
「お、おい・・」
 がくがくと震えて力の入らない両腕を床につき、ようやく半身を起こす。乱れた髪が、汗でこめかみに張りついている。
「あんまり無理しない方が…」
「大丈夫・・です・・」
 あえぐように息をつきながら、景麒は硬い表情を崩さない。
「じゃあ、自力で部屋に帰れるようになるまで、ここで休んでろ。幸いまだ夜明けまでは 間があるし、私は隣の臥台で寝るから…」
 陽子は上衣を羽織って、牀榻の入り口に手をかける。

「そんなに……っ!」
 景麒の思いつめたような声に陽子は振り向いた。
「そんなに、私をお厭いですか・・?」
「なにを…・」
 いいかけて陽子は口をつぐんだ。
 景麒は眉をひそめるようにして、強い眼差しで陽子を見据えている。月明かりに照らされて、景麒の顔は蒼白い。
 その瞳だけが、強い光を放っていた。
「なに馬鹿なこと言ってるんだ」
 陽子は景麒の傍らに膝をついた。
「私はこの間の反乱で返り血をたくさん浴びた。おまえだって本当は私のそばにいるのはつらいだろう?」
「・・そんなことは・・!!」
「私には、さっきより具合が悪くなってるように見える」
「……たいしたことはありません…」
 景麒はうつむく。
「いったいどうしたんだ?おまえ、今日はなんかおかしいぞ」
 陽子はため息をついた。
 まったく、いったいなんだというのか。
 いつもは尊大で、ちっともかわい気のない景麒が、今日はひどく頼りなく見える。
 心細そうな景麒を見ていると、なんだか落ちつかない気がした。

「……もう、帰ってきてくださらないかと思いました・・」
 うつむいたまま、景麒がぼそりとつぶやく。
「……さっきもそう言ってたな。なんでそういうことになるんだ?」
「それは……」
「帰ってこないなんて、そんなことがあるわけないだろう?」
「しかし…!」
 景麒は不意に顔をあげた。
「ようやく国が落ちついたかと思ったら、市井に降りたいとおっしゃる。反乱を鎮めて、金波宮に戻られることが決まっても、なかなか帰ってはいらっしゃらない…」
「だからそれは…」
 ため息混じりの陽子の声を景麒はさえぎった。
「おまけに、ようやく金波宮にお帰りになったというのに、私の所にはいらしてくださらなかったではありませんか」
「だ、だっておまえが具合が悪いっていうから、わたしが行ったら帰って体に障るかと…」
「そういう問題ではありません」
 景麒はきつい声で言うと、恨みがましく陽子を見つめる。
陽子はすっかり当惑してしまった。
「えーっと…その・・・」
もごもごと呟くが、何を言っていいのか見当もつかない。
(これは…もしかして……)
 陽子はやや呆然と、景麒を見返した。
(もしかして……拗ねてるのか・…??)
 景麒が拗ねる…・・。
 想像もつかない事態に、陽子はどうしていいかわからず押し黙る。
 景麒は口元をきつく結んで、陽子を見つめている。
 と、景麒の目の焦点がふっとぼやけた。

「……景麒!?」
 ぐらり……と景麒の体がかしいだ。陽子は慌てて景麒の体を抱きとめる。
「おまえ…!無理するから・・…」
 その体が、先ほどに比べてひどく熱くなっていることに気付き、陽子ははっと息を飲んだ。慌てて額に手を当てると、明らかに先ほどより熱が上がっている。
「ますます悪くなっているじゃないか!私のところになんか来るから……」
「……主上に・・お会いしたかったのです……」
 景麒の声は、熱のせいかぼんやりしていた。
「そんなの!いつだって会えるだろう!?」
 陽子はまわりに散らばっている衾褥を、景麒にいくつも巻き付けた。
「一人で牀榻に横になっていると、主上がもう帰ってきてくださらないような気がして…」
 景麒の声は独り言のように頼りなかった。その視線は陽子を通り越して、どこか遠いところを見つめている。
「また…、こうして横たわっているうちになにもかもが終わってしまうような気がして……ずっと…・」
 熱にうかされたように呟く声に、苦しげな吐息が混ざる。

 陽子は胸をつかれた。
 この麒麟は、以前もそうして王を失ったのだと、ようやく思い至った。
予王を失った時の、景麒の絶望を思った。

「ずっと…不安だったのです・・…。だから…・」
「もういい」
 陽子はそっと景麒を抱きしめた。景麒が驚いて身を強張らせる。
 景麒の衣に焚き染められた香が薫った。
 触れあった肌が熱い。
 陽子の首筋に、景麒の吐息がかかり、陽子の頬がかすかに紅潮する。
「……私はおまえを置いていくような事はしない…。約束するから…」
 囁いて、両腕に力を込める。景麒は身体を硬く強張らせたまま身じろぎしない。
「心配させて…悪かった…」
 景麒がひっそりと息をつくのが聞こえた。強ばっていた体からゆっくりと力が抜け、そのまま陽子に倒れかかる。

「・・・景麒?」
 陽子は慌てて、景麒の顔を覗き込んだ。もう半分意識がないのか、今にも閉じそうに細められた目がぼんやりと陽子を見つめている。
「景麒!しっかりしろ!」
 抱えた体は熱く、しかし驚くほど軽かった。ゆらゆらと揺さぶると景麒の瞳が一瞬焦点を結ぶ。
「主上・・・・」
 声は熱のせいか、ひどくかすれていた。
「景麒・・私が悪かったから、もう置いてったりしないから!だから部屋に戻れ!どんどんひどくなってるじゃないか!」
 ますます熱くなる体に、陽子は必死に言う。
 その言葉に安心したのか、景麒の体からぐったりと力が抜けた。
 今度こそ意識を失ったらしく、その目は固く閉ざされ、上向いた首から長い金の髪が滑り落ちる。

 安心したようなやすらかなその表情を、陽子はじっと見つめた。
 慎重な手つきで景麒の体を衾褥に横たえ、足音を立てないように牀榻を出る。
 破璃の扉を開けて露台に出て、その桟に腰掛けると、破璃越しに牀榻で横たわる景麒が見えた。
 自分が傍にいると景麒の体に障るのは分かっていたが、今日だけはついていてやりたい気がしたのだ。

 ひとつ、ため息をついて陽子は柱に背中を預けた。
 見上げる月の色は、景麒の髪のように淡かった。
 

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