|
祥公女(下)
作:藤屋ねくたー
−これまでのお話−
あらすじなんてものは書く方も読む方もつまらないものなので、ちゃっちゃとまとめよう。
とにかく、祥瓊は不幸なのであった。
親父の失踪、貧困にあえぐ生活。院長からは労働を強要され、元同級生からは皮肉を言われ、あまつさえネズミの這うようなベットで眠る有様。
嗚呼かわいそう、かわいそう。
だが、がんばれ祥瓊、まけるな祥瓊。
幸せの青い鳥(?)は、すぐ目の前までやって来ているのだから……。
「どおっせ、お・いらはネズミだ・よ〜〜〜♪」
楽俊は床にどてっと、腹ばいに寝っころがっている。自棄になっているのだろうか? 全然やる気がなさそうである。
「ひげが六本しっぽが一つ、すみからすみまでネズミだ・よ〜〜〜♪」
そして楽俊は何処かからチーズを取り出すと、ポリポリかじり始めた。
「でも、私も楽俊が人形(ひとがた)でいるところを、まだ見たことないわよね」
テーブルの方から祥瓊が声をかける。
「……チュウ?」
「あ、ちょっと待ってて。これを終わらしちゃうから」
テーブルに向き直る祥瓊。
「…ええと…2の3の2で7、わっ…93点じゃない。良くがんばったわねえー」
祥瓊は年少者の答案を添削しているのだった。いわゆる赤ペン先生である。彼女の仕事はまさに多種多様にわたっていた。
「…えっと……93点おめでとう……六美ちゃん…よくがんばったわね、えらいぞ……それから…馬鹿って言われても…怒っちゃだめよ……馬鹿って…言っている方……が…ほんとうは…馬鹿なん…ですから…ね……と。ふう〜〜、終わった終わった」
祥瓊は大きく伸びをしてから、視線を楽俊へと向けた。
「…で、どうして楽俊はいつもネズミの格好でいるの? たまには人形になってみてもいいじゃない、れっきとした半獣なんでしょう? なにか理由でもあるの?? あるんでしょう???」
「……へ、理由?」
突然、理由とたずねられてみても、楽俊は戸惑うばかりだった。ただ何となくとか、気楽だからとか、あまり服を持っていないから、とかが正解に近いところではあるが、この好奇心一杯で目をキラキラさせた少女に、そんなことを答えても、納得しないだろうことは目にみえていた。
「…実は、呪いが……そう、呪いをかけられてるんだ」
軽い気持ちで、口からでまかせを言ってしまう楽俊だった。
「………らく…しゅん」
視線を下に落とし、低い声を絞る祥瓊。
あ…、うそがバレバレか…と思わず引いてしまう楽俊。
「そう! やっぱりそんな事情があったのね!!」
顔をパッと上げると、顔中をキラキラうずうずワクワクさせて、祥瓊は叫んだ。
「へ……?」
「あれよね、楽俊はどこかの国の若きプリンスだったのだけれども、その孤高な育ちのせいか、どこか心が荒んでいた。そんなある夜、一人の老婆がやってきて一晩の宿を頼んだの。だけどにべもなく断る楽俊。ああ、だがその老婆は実は大いなる魔女で、楽俊の心に愛が無い事を嘆いた彼女は、楽俊を一匹のネズミにかえてしまった……」
「お、おい。あのな、祥瓊……」
「いえ、言わなくても私には分かるわ。そして、かけられた呪いを解く方法はただ一つだけ、人を愛し、そして愛されること。そう、真実の愛を見つけ出すこと……」
果てしなく突っ走る祥瓊。こうなった祥瓊はもう誰にも止められない。
「ん……らくしゅん……」
軽くまぶたを閉じ、心持ち顔を上げる祥瓊。唇はほのかに開いている。
「なな……なんのまねだい」
いや〜な予感に、たらりと冷や汗をながす楽俊。
「私、初めてだけれども、楽俊になら………。王子様の呪いを解くのは、お姫様の清らかなキスなのよ、だから……」
ずずっと顔を近づける祥瓊。
ずずっと後ろに退く楽俊。
「らくしゅん〜〜、ほらっ。ん〜ん〜ん〜〜〜」
「いや、祥瓊、すまねぇ。ほらっ、あれは、さっきのはうそだ。でまかせなんだ。そう、きれいさっぱり、うそなんだ。ハハハ……。だから、なあ、おい……おいっ」
「ん…らくしゅん……怖がらなくても大丈夫。私たちの間にあるのは間違いなく『真実の愛』なんだから……。そんなに怯えたり不安がったりしなくても良いのよ。呪いはきっと解けるわ……だから…ほらぁ……」
「だ…だからさっきのは……うわっ、来るな……うわ〜〜〜〜〜〜〜〜っつ!」
――今日もごく平凡に、一日が始まっていった。しかし、朝も早よからパワフルな祥瓊である。
「院長、この書類のことなんですが」
「うん? ああ…ちょっと待っていてくれないか、こちらを済ませてしまう。………それと…小さい子の……面倒を良く見て…感心です……ただ…少々…妄想癖が…見られます……もっと…現実に…目を向けましょう……と」
「あ、兄上…いったい何を?」
「うむ、見て分からぬか? 答案の添削だ。……………って、なぜ私がこんな事を!?」
「………」
「お、おのれ〜〜〜」
――学院の運営は順調であり、何事もなく過ぎていく。
「あらあら珠ちゃん、大丈夫? 怪我はない? はい、これをあげるから泣いたりしちゃだめよ」
「わぁ〜チュッパ・チャプスだぁ〜〜。………って、人になにをやらせるのよ。もう、あなたはいっつもいっつも、人のこと子ども扱いにして。 バカにしてるの!? 頭くるわね!! 放っといてくれない!!!」
どたばたじたばた、はっぱふみふみ。
「ダメよ珠ちゃん、癇癪を起こしちゃあ。……でも、そんなおこった顔の珠ちゃんも、かわいい〜〜〜」
がばっ、抱き抱き抱き。
「ふにゃあ〜〜〜」
――学友たちは友愛を深め、今日も学院は平穏であった。
「…ふと見あげると、そこの木の枝に、例の猫がまた現われてすわっていました。『さっきはピッグ(豚)といったのかい、それともフィッグ(イチジク)といったのかい?』と猫は言いました。『豚といったのよ』とアリスは答えました…」
楽しい夜の自由時間、祥瓊は楽俊に本を読んであげていた。『不思議の国のアリス』である。
もちろん、楽俊だってアリスぐらい読んだことはある。だが、読んであげるという祥瓊のとびっきりの親切を、どうして断ることができよう?
…といったわけで、楽俊は祥瓊のとなりにおとなしく座っているのだった。
「『お願いですから、そんなに急に、消えたり出たりしないでもらえます? 目がまわりそうになるわ』『わかったよ』と猫はいいました。そして、今度はひどくゆっくり消えていきました。はじめは尻尾の先から消え、最後はにやにや笑いする顔でしたが、それは、ほかの部分がすっかり消えてしまってからも、しばらくのあいだ消えずに残っていました…」
そこまで読んで、祥瓊は満足そうに微笑みを楽俊に向ける。楽俊も、何とか笑顔を返す事ができた。
その時、窓の方からコトリという音が聞こえた。二人が顔を向けてみると、開いた窓の先に、一匹の猿がチョコンと腰掛けていた。
「あら…楽俊、猿よ」
「ああ。どっかに飼われてるのが逃げてきたのかな? だけど珍しいな、あの猿。体が青くないか?」
「そうね。こっちに来るかしら? おいで、お猿さん。こっちにいらっしゃい。外は寒いでしょう?」
そのまま窓の方へと、祥瓊は近づいていった。
「……おままごとは、もう終わったのか?」
祥瓊が手を伸ばしたその瞬間、猿がニヤリと笑った。
祥瓊は一瞬、ピシリと凍りついた。しかしそれはあまりに一瞬のことだったので、スロー再生かなんかで調べない限り、誰にも分からない代物であった。
しかし、こんな時代にビデオデッキがあるでもなし。
まあ、そんなことはどうでも良い。とにかく、復帰した彼女はくるりと体の向きを変えると、いきなり『ポン!』と手を打った。
「そうだ、わたしアイロンがけをするのをうっかり忘れてたわ。いけない、いけない。すぐにやらなくちゃ」
無意味に、明るく大きな声を出すと、祥瓊は部屋の隅の物置棚へとスタスタ歩いていった。
何も無かった事にされた猿は、しばらく呆然としていたが、やがて我に返ると躍起になって祥瓊の気をひき始めた。もちろん、彼オリジナルの憎まれ口を使ってである。
…だが、のれんに腕押し、ヌカに釘。祥瓊はまったく相手をする気配がない。
猿の方も、最初は「オウオウ、スカしちゃってよ。お高くとまった嬢ちゃんだナア」とか「純情ぶりっ子は、ネライなのケェ?」とか、余裕を持った心理攻撃といった感じだったのだが、全然相手がノってこないとなると、もう手当たり次第の具体的直接的。『バ〜カ』『ブ〜ス』『あんにゃもんにゃ』『ひょっとこ』などと、まるで子どもの喧嘩レベルの悪口を言い始めるのであった。
「………ハァハァ……団子っ鼻……足拭きマット……」
「あら、霧吹きどこに置いたかしら?」
「……ガミガミ女……フゥ……ドーナッツ顔……」
「楽俊、そこのシーツ取ってくれる?」
「…ハァ、フゥ……カバの耳……モウセンゴケ……」
「明日は晴れるかしら? 暖かくなるといいわね」
「…フゥ…ヘンペイ足……ヒョウタンツギ……」
「…今……何ていったの?」
突然、祥瓊が低い声を出した。肩も何故かピクピクと震えている。
「へ…ヘンペイ足とか、い…言わなかったかしら?」
今まで全然アウト・オブ・眼中だった猿に対して、いきなりコミュニケーションを始めた祥瓊であった。
やった! 反応があった! これでオレのペースだと、思わず猿は喜んだ。
嗚呼、だがしかし猿はまだ、これから自分の身にどのような事が起きるかを、全く分からずにいたのである。彼はこの後、『虎の尾を踏む』『火に油をそそぐ』『絶体絶命』『空前絶後』といった言葉の奥の意味を、身をもって体験することとなる。
「私のこと、ヘンペイ足って言ったわよね?」
祥瓊は一瞬で猿の首根っこを捕まえると、ぬべ〜〜っと顔を近づけた。超どアップである。
「清純可憐な乙女をつかまえて、ヘ・ン・ペ・イ・ソ・クって言ったわよねぇ………」
――というわけでアリスもすぐに、これは非常にむずかしいゲームだという結論に達しました。
それに、ゲームのメンバーたちは、順番を待とうともせず、みんな一度にプレーをはじめるので、しょっちゅう喧嘩ばかり起こして、ハリネズミを争っています。それで女王はたちまちのうちに癇癪をおこし、地面をどすんどすんと蹴っては、「あの男の首を切れ!」とか「あの女の首を切れ!」とか、もう一分置きぐらいにわめき散らすのです―――。
(ルイス・キャロル 不思議の国のアリス)
……さて、どれくらいの時間が経ったのだろう。
屋根裏部屋は、いつもの平穏を取り戻していた。
祥瓊は、ゆったりと床に座っている。楽俊も見た目は平然とした感じだ。猿はチョコンと祥瓊の膝の上に腰掛けていた。
祥瓊は静かな声で、猿を諭しているようである。
「いい? 人に対して、悪口を言ってはだめよ。とってもお行儀が悪いことなんだから」
「………(コクコク)」
猿は無言で頷いた。
猿の両頬は祥瓊の手につままれ、横にぐにゅーと広がっていた。まるでモチのように、おもしろいほど伸びている。
「ましてや、純真無垢な乙女に向かって罵詈雑言を浴びせるなんて、言語道断の事。これがおとぎ話とかなら、首ちょんぱされても文句言えないとこなんだから」
「………(コクコク)」
いまや恐ろしく聞き分けの良くなった猿は、素直に首を縦に振る。
「だから、特に初対面の人に対しては、素直に猿らしく振舞う方がいいの。その方がずっとスムーズに行くのよ」
「………(コクコク)」
「じゃあ、さっきのシーンをもう一度やり直してみましょう、ね?」
楽俊は、そんなふたりのやり取りを脇で大人しく見ていたが、終いにはウンザリしたのか、床に転がっていた本を拾って読み始めた。
「おいで、お猿さん。こっちにいらっしゃい。外は寒いでしょう?」
「…………………………キキッ、キャッツキャッツ」
祥瓊と猿は、窓際に場所を移すと、先ほどの場面をやり直し始めた。
「まあ、お利口なお猿さん。寒かったでしょう? いま、暖かくしてあげるから待っててね」
「……………………キャッツキャッツ、キュウウ」
「あら、かわいい。お猿さんは、どこの家の子なのかしら? きっと迷子になっちゃったのね。いいわ…私が明日、一緒にお家を探してあげる」
「………………キャッ、クゥェクゥェ」
ふたりの声を耳にしながら、楽俊はひとり本を読み続けていた。しかし、どうも話に出てくるチェシャ猫が気に入らないようで、時々顔をしかめたりしている。
あたりはひっそりと静まって、時折、祥瓊たちの話し声が聞こえて来るぐらいであった。
「キャッキャッ、クエェ」
「あら…そんな、きれいだなんて……。お世辞が上手なのね」
「………。ゲゲェ、グキィ!」
「あら、私のお手伝いをしてくれるっていうの? でも、悪いわ」
「! グケェ、ギャッギャッギャッギャッギャッギャッ!!」
「そう? それじゃあ、この洗濯物をたたんでくれるかしら?」
「………ゲロゲロ」
「まあ、ありがとう」
祥瓊はにっこりと微笑んだ。
翌日の午後。祥瓊は猿を抱え、とある屋敷を訪ねていた。
玄関の前に立つと、呼鈴を押した。
しばらくすると玄関の扉が開き、中から三十過ぎぐらいの男性が姿を表わした。
「どちらさまでしょう?」
「わたくし祥瓊と申します。こちらのお屋敷で…」
話し始めた途端、猿が祥瓊の腕の中から飛び出し、その男にしがみついた。
「あ、おい、タオじゃないか。どうした?」
猿は男の呼びかけにも応えず、ガシッと胸にしがみついている。
「やっぱり、こちらのお宅でしたのね」
微笑ましい再会に、目を細める祥瓊であった。
「ああ、タオを…この猿を届けに来てくださったのですね。ありがとうございます。夕べから姿が見えないので、どうしたのかと思っていたところです」
「ずいぶんと懐いているご様子ですけれど、貴方がドンちゃん…いえ、お猿さんの飼い主でいらっしゃるんですか?」
猿は相変わらず、男にしがみついて離れようとはしない。
「いや、タオは私どもの主人の猿なのですよ。私は浩瀚と申しまして、この家の差配を任されている者です。いやしかし…おい、ちょっと…あまりしがみつくな…」
浩瀚は、猿を少し引き離す。
「いつもはこんな感じではないんですが…。悪態ばかりついて、人を人とも思っていないところがありましてね。それでいつも主人を怒らせているんですよ。こいつを首ちょんぱしようとする主人を、私たちがいったいどれ程お止めしたことか…」
浩瀚はそこでため息を吐く。
「それはそうと、こいつはお嬢さんに、その……悪態をついたりしませんでしたか?」
「いやですわ、浩瀚様。猿は、悪態などついたりしませんわ」
「いや、普通の猿はそうなのですが…こいつはちょっと変わった猿でして……」
そう言うと、浩瀚は目を猿の方に向ける。
「おい、タオ。一体どうしたんだ? ずいぶんと殊勝な様子じゃないか。いつもの調子はどこいったんだ?」
すると猿は顔を上げ、何か話そうと口を開けるが、つい祥瓊の方を気にして口を閉じてしまう。しかしまた浩瀚に喋ろうとするが、やはり祥瓊の顔を見て止めてしまう。
浩瀚を見ては祥瓊を見、祥瓊を眺めては浩瀚を眺め、浩瀚、祥瓊、浩瀚、祥瓊、祥瓊、浩瀚と何度も顔を見比べていたが、やがて目にジワッと涙をためると、浩瀚の胸にしがみつき顔をうずめた。
「お…おい。一体どうしたんだ!?」
あまりといえばあまりの事に、びっくり仰天する浩瀚。
しかし、猿は浩瀚の問いかけにも返事をしようとしないので、全然らちが明かない。
浩瀚はあきらめ、話題を変えようと祥瓊に顔を向ける。
「ところでお嬢さん…祥瓊さんは、どちらにお住まいなのですか?」
「わたくしは、この近くの慶恭女学院におります。そこで小間使いをしているんですの」
そう言うと祥瓊は少しはにかみ、ニコリと微笑んだ。
それを聞き、浩瀚は少なからず驚いた。言われてみれば確かに祥瓊は小間使いの格好をしていた。しかし、その物腰といい、身のこなしといい、どうみても育ちの良いお嬢様としか思えないのである。
もともと率直である浩瀚は、この疑問を素直に祥瓊に尋ねてみた。祥瓊は、浩瀚に自分の境遇を簡単にさらっと話した。
「……そうだったんですか、そのようなお身の上で。………しかし…そう、祥瓊さんとおっしゃいましたよね。それであなたのお父上の事業と申されるのは…」
「はい、鉱山の開発をしておりました。ダイヤモンド鉱山とか…」
「ダイヤモンド! ……ああ何ということだ!! こんな目と鼻の先に!!!」
「……?」
いきなり興奮しだす浩瀚。クール・フェイスの彼には、あまり似つかわしくない。
「ああ祥瓊さん! ぜひ私の主人に会って…いや、今日はダメか。明日…明後日、そう祥瓊さん!」
「は、はい」
「ぜひ明後日、またこちらに来ていただけませんか? 私の主人も、きっと今回のお礼を申したいと思います。あいにくと、今日は不在でして」
「あ、はい。分かりました、明後日ですね。かまいませんわ」
浩瀚の勢いにつられ、素直に承知する祥瓊。
「ありがとうございます。では明後日に。本日は失礼します。ごきげんよう」
それだけ言うと、興奮さめやらぬ状態の浩瀚は屋敷の中へと引っ込んだ。
なんとなく、きつねにつままれた状態の祥瓊であった。
二日後。祥瓊は約束どおり、再び屋敷を訪れた。呼鈴を押すと浩瀚が姿を表し、屋敷の中へと招き入れられる。日当たりの良いサンルームに通され、壁ぎわに設えられたテーブルへと案内された。祥瓊が椅子に座ってしばらく待っていると、やがて一人の若い女性が部屋に入ってきた。
年の頃は17〜8といった頃だろうか? スラリとしたきれいな女性で、白いブラウスに柔らかなフランネルのパンツといった出で立ちである。一つに束ねられた長い髪は燃えるような赤で、瞳は深い緑色。全体にキリッとした印象のある女性であった。ただ心持ち、顔が青白いようである。どこか具合が悪いのだろうか?
彼女は、祥瓊に軽く会釈をすると向かいの席に座った。祥瓊もそれに応え、軽く頭を下げる。
「改めてご挨拶を。私はこの家の主で、中嶋陽子と申します。ようこそおいでくださいました」
お茶の用意をしていた女中たちが下がった後、彼女は挨拶を始めた。
「先日は、わざわざあの猿を届けて頂きありがとうございました。あいにくとその折りは不在にしていまして…お目にかかれず失礼しました」
「ご丁寧なご挨拶、恐れ入ります。わたくしは祥瓊と申します。そんな、わざわざだなんて…大したことはしておりませんわ、中嶋様」
「どうぞ、陽子とお呼びください」
彼女は軽く笑った。
「いえいえ、大した事です。あのような猿、そのまま放って置かれるのが普通です。しかし、あなたはわざわざ届けてくださいました。おまけに何があったかは知りませんが、タオもあれ以来、人が変わった様だ。まあ、あいつの事ですから、すぐ元に戻ってしまうでしょうけれど」
「まあ…。でも、そうですわね」
祥瓊もおかしそうに笑う。
それからしばらくの間、他愛のない話を楽しむふたりであった。
「陽子様」
「はい?」
「陽子様は、このお家のご主人でいらっしゃるんですよね。こんなにお若いのに」
祥瓊は感心した口調で話す。
「いろいろとありましてね。まあ、何とかやっております」
そこで陽子は居住まいを正すと、真剣な表情で祥瓊を見つめた。
「祥瓊さん、実はあなたにお話ししなければならないことがあります」
「はい…」
「浩瀚より、あなたのご境遇の事は伺いました。その…唐突ですが、あなたはお父上に事業の共同経営者がいた事は、お聞き及びですか?」
「ええ、そのような話を聞いた事があります。詳しいことは知りませんが……」
ある種の予感に、祥瓊はこわばった声を出す。
「あなたは……父をご存じなのですか?」
「はい」
陽子は返事をした。
「その共同経営者が私なのです。また、これも申し上げなければなりません。鉱山ではダイヤモンドが見つかったのです」
共同経営者?…鉱山?…ダイヤモンド?…ダイヤモンド!
無意識のうちに、その場に祥瓊は立ち上がっていた。
ダイヤモンドがあった、ダイヤモンドがあったのだ! 父の夢見た宝石が…いや、まさに父の夢そのものが、かの地で見つかっていたのだ!!
ほとんど最初で最後というシリアスなシチュエーションに、祥瓊はウットリと酔いしれていた。
「祥瓊さん!」
陽子は、ふらりと力が抜けた祥瓊を抱きかかえた。
だが、未だほろ酔い気分の祥瓊は、強く陽子の腕を振り払う。
「では……貴方は騙したのですか? 父や私を!」
「いえ、そのような事は決してありません。事情をお話しいたします。どうかお座りください」
なんとか祥瓊を椅子に着かせると、陽子は静かに話を始めた。
「全ては不幸な出来事が重なったのです」
それは長い話であった……。
鉱山の発掘作業が、当初からうまくいってなかった事。鉱石は見つからず、資金は底を尽く寸前まで行き、陽子は土地の病気に罹ってしまったのだ。
また、祥瓊の父が行方不明となった事。彼はある夜、鉱山を巡回しに行ったのだが、折からの嵐で氾濫した川に流されたのである。その後、まさに事業が立ち行かなくなるという瀬戸際で、ダイヤモンドの鉱脈を発見した事。鉱脈の発見を期に、事業が順調に動き始めた事。そして、祥瓊を探したのだが、行方が分からなかった事。
「…いろいろと災難が続いた事もあり、あなたの消息が分からなくなっていたのです。書き物はおおかた失われ、分かっていた事は「祥瓊」というその名前と、どこかの学校の寄宿舎に入っているということ。私たちは、あなたが外国に留学しているものと思い込み、見当外れの方を探していたのです。誤った情報に振り回されたのですね」
そこで、陽子は軽く息を吐いた
「しかし、こうしてあなたは見つかった。ダイヤモンド鉱山の権利の半分はまさしく祥瓊さんのものです。もう、不自由な生活を送る必要はないのですよ」
祥瓊は驚きの連続で、頭がポーッとしていた。
「それで…あの、父は…父の行方は……もう絶望的なのでしょうか?」
「お父上ですか…」
陽子は硬い声を発する。
「事故に遭われた時の状況を考えますと、おそらく………。しかし私は、まだ希望を捨ててはおりません」
陽子は、かの地での事を思い出す。
水害の起きた場所をその目で見もした。捜索も行った。だが祥瓊の父の痕跡は見つからず、ついには捜索は打ち切りとなった。陽子はずっと彼の事を心に気に掛けながらも、病が癒えた体で、その後の鉱山開発の多忙な日々を送っていた。
そんなある日、父によく似た風体の者が、ある集落で目撃されたという話が鉱山に伝わってきた。
陽子やその仲間は、この話に沸き上がり、早速それを頼りに調査をおこなった。しかし、話自体が噂に毛が生えた程度のもので、おまけに内容も不鮮明。結局調査は徒労に終わった。やがて陽子は、父の生存に関しては確たる結論を持ち得ずに、帰国の途に着いたのである。
だが陽子は、少ない望みであろうとも、祥瓊の父が生きていると信じている。そして、それを支える根拠となっていたのは、例の噂を調べている際に入手した一つの情報であった。
『……その男は、集落の酒場に居たという話です。何でも土地の女性を数人ひきつれて…その……ドンチャン騒ぎをしていたという………』
これはまさに、祥瓊の父ズバリの特徴であった。
こちらの情勢も大体落ち着いた。改めて捜索を始めるのも、決して無駄ではないだろう。
―陽子はそう考えた。
だがもし仮に万が一、あいつがのうのうと生きていたら一体どうしてくれよう! ただでは済まさぬぞ、あののんき者め!!
凶暴な考えに捕らわれる陽子であった。
有能だがでたらめでのんき者。祥瓊の父はそんな男である。
「あの…陽子様、どうなさいました?」
突然むずかしい顔をして黙り込んだ陽子を、祥瓊が心配そうにのぞき込む。
「あ、いや…何でもありません」
そう言うと、祥瓊にさわやかな笑顔を向ける。
そして祥瓊は、陽子の笑顔に顔を赤らめていた。あの緑色の瞳に見つめられると頭がポーッとなっちゃうわ、などと思いながら……。
それからしばらく後の、冬にしては割合と暖かい日。祥瓊は学園を出立することとなった。
今では祥瓊もかなりの資産を持ち、学院に身を寄せる必要がなくなったのである。当分の間は陽子が後見ということになり、彼女の屋敷に住まうことになっている。
この話を聞いたとき、院長の景麒は少なからず動揺し、また、祥瓊が学院を出るということに、少々難色を示した。だが、結局は陽子と院長の間で穏便に話がついたらしい。
詳細な話は省くが、院長は最後に「……いたしましょう」とだけ言葉を発したとの事だ。
あるいは陽子の鋭い双眸に見据えられて、景麒は奇妙なプレッシャーを感じたのかもしれない。
そして祥瓊の行く先には当然、楽俊も付いて行くこととなった。あまりにも当然の事なので、この辺りの詳しい話も省かせていただく。
さて祥瓊は、挨拶を済ませると学院の門へと向かった。隣には楽俊が、祥瓊の歩調に合わせて歩いている。祥瓊はちらっと楽俊の顔を盗み見た。初めて見る楽俊の人形に、あらためて胸をドキドキさせてしまう祥瓊であった。
そして門の外には陽子がいた。スーツをスマートに着こなし、凛とした風情で祥瓊を待っていた。心労が無くなったせいだろうか、顔色もだいぶ良い。そして祥瓊の姿を認めると、薄く微笑んだ。
祥瓊もニッコリと微笑み返す。そして、今度の生活もいろいろ楽しいことがありそうね、と心に思うのであった。
祥瓊の冒険は、まだまだ始まったばかりである。
<< 終わり >>
あとがきへ
感想メールはこちら :
ねくたーさま fujiya_nectar@hotmail.com
|