襟 懐

作:はるひ さま


慶東国堯天、金波宮のとある庭院。
月明かりの下、景王陽子は頭上に広がる空を見上げていた。
月を映しているその翠の瞳には、わずかに涙が滲んでいる。
「許してくれるか?蘭玉・・・」

自室にて書物に目を落としていた景麒は何かを感じ、ふと顔を上げた。
「主上・・・?」

微かな足音を聞き、陽子は涙が零れそうになるのを堪えた。
「どうされたのですか?」
冷たくはないが、抑揚のない景麒の問いかけに苦笑しながら、軽く振り向き陽子は答えた。
「どうもしないが?景麒こそどうした?」
「何でもないようには見えませんが。・・・泣いてらっしゃるのですか?」
景麒の問いに陽子は顔をそらす。なぜ、こんな時に現れるのか。
「ちょっと蘭玉の事を思い出して・・・」
「蘭玉?里家で亡くなった・・・?」
「氾麟が来た時の事覚えているか?お前は麒麟の気配でわかったらしいが、私には蠱蛻衫を被った彼女が蘭玉に見えた。・・・胸が痛くなったよ。彼女は慶の平和を知ることなく、人生を終えた。豊かな実りも平穏な時も知ることなく。御璽を隠すように、守るように握り締めて・・・もう、返してやれる術がない」
そう言って陽子は草原に腰を下ろした。その隣に景麒も座り、主の顔を見る。
「ご自分を責めないで下さい。確かにその場に主上がいらしたなら、彼女を守れたかもしれません。しかし過ぎた事です。今更悔やんでどうなります?」
「景麒・・・・・・」
陽子の強く光る翠色の瞳を見つめながら、景麒は言葉を続ける。
「彼女を守れなかった分まで、桂桂を見守っていくのでは駄目なのですか?あなたは、この国の王です。民を救い、国を守っていく事が、彼女への手向けになりませんか?」
無愛想で感情を表すことがない景麒が、こんな事を言うとは。自分を気遣ってくれてるのか。そう思い、陽子は苦笑した。
「なんだか景麒とは思えないな」
そう言われ、景麒はフイ、と顔をそらす。
「たまには頼って下さい。主上はお一人じゃないんです。お一人で抱え込まず、話して下さい。何の為に半身の私がいるのですか」
まるで拗ねてるかのような景麒の言葉に陽子は驚いたが、不器用なこの麒麟の優しさを感じ、そして胸の奥からは、染み出るような嬉しさが込み上げてくるのを感じた。
同時に自分を情けなく思い、陽子は泣きそうになる。
「楽になるなら、泣けばよろしいのです」
えっ、と陽子は景麒を見る。微笑んでいるように見えた。
「少しでも悲しみが消えるのなら、悔しさが少なくなるなら、そうすればいいのです」
「お前の前でなど・・・」
―――泣けるか
そう言いきれず、翠の瞳からは涙が零れた。景麒の肩に額をのせ、陽子は泣いた。
泣き顔など見られたくない。
「泣いて、泣きやんだら、笑って下さい。これからの慶の為に。・・・私の為に」
「・・・なぜ、お前の為になんだ?」
「主上の笑った顔を見たことがございません」
―――やはり、景麒だな。思いやりがあるのか、ないのか。
いつもの調子で答える景麒に、濡れた頬をぬぐい、陽子は反論した。
「私も景麒の笑顔など見たことないぞ」
「主が聞き分けのない方ですから」
悪びれもせずに言う自国の麒麟に対し、言葉を返そうとしたが、やめた。
これではいつもと同じだ―――いつもと
そう思うと、なぜか笑えた。
「笑いましたね」
その言葉に陽子が顔を上げると、そう言った景麒も微かに笑んでいた。
「そろそろ戻りましょう。お茶でもお飲みになりますか?」
「お前が淹れてくれるのか?雨が降るぞ」
これには答えず、景麒は先に歩いて行く。その後ろ姿を見ながら、陽子は問いかけた。
「また、いつか泣きたくなったら、肩を貸してくれるか」
振り返り景麒は答える。
「ご所望とあらば、いつでも」

―――悪くないな

いつも言葉が足りないと言われているが、今夜の景麒はおしゃべりだった。
無愛想だし、溜息ばかりだし、文句しか言わないけど。

―――こういうのも悪くないか

慶の安寧には程遠い。遥かな時間を共に歩む相手なのだから、こんな時があってもいいのだろう。一人じゃないんだから。
そう思いながら、扉の前で主を待つ麒麟へと、陽子は歩みを進めた。


−おわり−

 


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