■朱麒■
その運命の全てを主に握られ
天に孤高の頭を押さえつけられ
民に命の一片までも縛り付けられて――
先の戦いで、景麒は血に病んだ。以降およそ百日弱、重苦しさと微熱に悩まされての体調のすぐれぬ日が続き、
床を離れたのは僅かに一昨日のこと。
景王は未だ読むことには長けていなかったが、和州の乱平定に依って得た腹心と共にまずは偏りのない政務をとれる体制を行えるように
なりつつある。師と仰げる人物を招いたことによって陽子自身に対する評価も変わる。友と呼ぶ少女達の曇りのない視点と遠慮のない
台詞が陽子を孤独から救っているだろう。それもこれもむろん陽子の度量在ってのことではあったが。
景麒は小さな土饅頭の前に佇んで、ぼんやりとその草に覆われた緩やかな曲線を描く地面を眺めていた。
ここにはかつて景麒が主と呼んだ者が眠っている。否。眠っていると言うのは正しくない。古来より国を傾けて果てた王には民の
憎しみが深い。廟が築かれることも稀にはあったが、この慶に置いて女王はその性別だけで最早忌む理由となり得た。よって景麒を
思い、民を思って蓬山に登り退位した予王にそれはない。下界で果てたわけでもないからこの慶の地に予王の遺骸は無いのだ。
ここに納められているのは、予王が愛した細々とした品。決して豪奢ではないそれらを予王は贅を尽くした装飾品より愛した。
もともと即位時点から荒んだ国土と王宮で思う様の贅沢など望むべくもない。少なくとも浪費で国を傾けた王ではなかった。
かがみ込んで景麒はささやかな墓をなつかしむように撫でる。掌に触れる若い下草の感触は、穏やかさを望んだかの女性には似合いだろう。
玉座も廟も予王には厭わしいばかりだったはずだから。
「今は安らいでおられるか。」
そよ風にもかき消される小さな声で語りかける。それが景麒自身で生み出す身勝手な空想と解っている。だが、脳裏で予王は優しげな
笑顔を浮かべた。
慶があれ程に荒れ果てる前に予王を見いだせたなら、もっと穏やかな国を引き継ぎ、在る国を保っていくのが彼女の役割であったのなら、
予王は穏やかな国を育てたかも知れない。慈母の笑みで民をいこわせもしただろう。しかし、現実に彼女が抱えたのは痛みばかり深い
焦土だった。
ひきかえ、と思う。
今の王はむしろ改革者として相応しい。平時には騒乱さえ生みかねない覇気。女王でありながら文王と呼ぶより武王と賞するに相応しい
気配はその即位への経緯に因るのかも知れない。
景麒自身で眼にしたわけではないが、関弓に留まれとの延王の勧めを断って陽子は擬王討伐の先頭に立ったという。
それは王として正しい示しようだ。自分ばかりが保身に汲々としては官など付いては来ない。使令の助け如何に関わらず予王には戦場に立つ
ことなど出来なかったに違いない。そして、自分が死臭渦巻くそこに赴くなどあり得なかった。かつては……。
今も微かに火照りを覚える身体。
麒麟のもって生まれた性癖をこれほど煩わしいと思うとは。
傷付く主の傍らで護ることすら叶わない。民意の具現が何ほどのものだろう。王宮の奥に隠れ棲んで案ずるだけなら、
民意を量る天秤でも置いておけばいい。道誤った王を己が命の道連れに弑逆するが役目なら毒薬でもしつらえておけばいいのだ。
だから、後を追った。
もう二度と失いたくはない。傷付いた王の傍らに立ち彼女が常に帯びる宝刀水禺刀をその手に取った。
* * *
陽子の翠瞳に驚愕がうかぶ。
「景麒お前っっ。」
「伏せていなさい。ねらい撃ちされます。」
こんな場所で冷静に告げる自分が不思議だった。
主の肩を軽く抑えて王の玉体を土に低く沈ませる。少なくはない量の血が既に陽子の服を重く濡らしている。
「それでお前が討たれたら、単なる共倒れだ。金波宮に居ろと言っただろう。」
景麒の腕がすらりと剣を抜く。景王しか使えないと言われるそれを、何故こうも易々と抜くだろうか。
景麒はゆっくりと余裕のある仕草で下段に剣を構える。とても剣に触れることなど叶わない麒麟、まして出会った当初
『剣をふるう趣味はない』と言った男には見えない。落ち着いた姿は頼もしささえ感じられた。
「お前が安心していられない主とでも言うか。」
傷付きながら翠の瞳が力強い炎を覗かせる。まったくこの王は朱の髪のみならず、身に纏うあらゆる色彩を烈火と変える。
だからこそ護りたいのだと、己の全身全霊賭けて、不可能と言われる麒麟の体質さえ越えて護りたいのだと。覇気と同時に慈母の相を持つ
この主は決して景麒が戦場に同行することに諾とはしないだろうけれど。
「私が王だ。」
苦痛の滲んだ声が愛おしい。屈っしない心根が愛おしい。それ故、麒としての身体に帯びる吐き気も挫けそうになる膝の力も
意志の下に従えて剣は手放さない。禁軍が主の安全を完全に掌握するまでは己こそが護るのだと至福を持って思った。
* * *
「景麒そこにいるか。」
存知よりの声に景麒は立ち上がって裾を払う。出来るなら誰にも踏み入られたくない場所への侵入者に、景麒の表情は僅かに硬い。
しかし延王にそれを気取られることも景麒の矜持が許さない。
礼儀を外さない間際の怜悧とも思える声音で応える。
「延王様如何なされました。」
「ああ、ここか。」
景麒の不機嫌など端から承知でしかも気に掛けず、尚隆は梢の間に覗く高い空を仰ぐ。遠く鳥の声さえ聞こえる穏やかな蒼空。
眼の端に土の小山を捕らえて、尚隆は薄く笑う。
――ここなら彼女も笑っているだろう――
救えなかった同輩。
「陽子が探していた。」
「……そんな女官にでもお命じ下されば。貴方がなさることとも……。」
「堅いことを言うな。俺が一番手すきだったんだ。」
まったく取り合わない。型破りで知られた賢君はその素行を隣国でも発揮して憚らない。影響されてか今では
景王もすっかり慣例から程遠い。
告げるだけ告げて、尚隆はさっさと従えた趨虞に跨る。
「延王様。」
「帰る。陽子には宜しく伝えておいてくれ。」
趨虞がふわりと立つ。
「余計なお世話とは思うが、もう少し言葉を惜しまないが上策だぞ。」
趨虞の足は速い。穏やかな広場に磊落な笑いだけが残る。
「言葉を惜しむな、か……。」
尚隆の立ち去った空を見上げて景麒は溜息のような笑いをこぼした。
* * *
荒廃尽きなかった国土は、ようやく緑が目立つようになり、秋ともなれば紅葉狩りを楽しむ民の姿も当たり前のものとなりつつある。
艶やかな紅葉した木々の朱。木々の下からこぼれ聞こえる人々の笑い声。
それを何よりの糧として、慣れないを毎日を紡いできた。
読めない文字。思うようには進まない改革と国政。上手くいかなければ女王だからと言われ、上手くいけば、
大国雁の後ろ盾あったればこそと。
それでも、何を言われても、人々が飢えず悲しまない国を願ってきた。全ての人に等しくそれを享受して貰うのは土台無理としても、
少しでも多くの人が笑って過ごせればと、今も思う。
王など体のよい下男に過ぎないと、かの国の偉大なる王が苦笑混じりに陽子に説いた。
教えると言うほどには押しつけがましくなく、雑談とするには重い内容で。
民草や官吏に言われるまでもない。今、景王赤子は大国雁、延王の庇護と信頼の元でどうにか国を束ねている。
自分の力でないことなど百も承知だ。誰よりも身に滲みているのは、陽子自身だ。
海客として終われた日々、擬王との王位の争奪戦があるにしても陽子には導く力強い手がある。しかし、その始め延王には何があっただろう。
陽子はそうして、何時もそこで惑う。
五百余年もの間国を統べてきた尚隆には、蓬莱で国を失った記憶のみがあるばかり、あとは荒涼とした大地だけがその目前に広がっただろう。
麒麟と己だけが持ち物。権力に疑問を抱いた王と麒麟だけが、荒れ果てた大地にそうあることしか許されずに、王と麒麟として立っただろう。
慶は確かに貧しく荒れている。それでも景麒は己の麒麟たる意味を知っており、この愚王にも付いてくれる官吏がおり、
友と呼んでくれる者が居る。
欺瞞と仮面ですごした蓬莱の日常を思えば何と贅沢な今だろうか。
それでも……
「時折、全てが煩わしくなることがあるんです。」
それがどれ程贅沢な事か、承知しているが。
「何一つ疑うことなしに、私を王として主として景麒は迎える。それが麒麟といえばそうかも知れないけれど。」
皮肉な言葉も全てが国を思ってのこと。余りある重責をその肩に担ってつがう同族もこの世には殆ど持たずに、ただ王を見つめる。
「けれど、ふと思うことがあるんです。景麒が仕えているのは私なのか、それとも大綱にだろうか、とね。」
それが、麒麟だからということなら、王と麒麟の間にはどんな絆も生み出せない。ただ天から与えられた決まり事が横たわるだけだ。
「くだらない愚痴と解ってるんですけど、もし景麒が決め事の為だけに生涯を費やすならあまりに虚しい。」
好意も思いも、ただもう定められてそこにあったのだ。
ならば、何を信じ、自分は何処に思いを寄せたら良いのだろう。景麒の何処と絆を結んだらいいのか。
「国と人々を第一に考えるべきだと言うのに、私ときたらこんな事ばかり考えて、これでは、あいつに迷った予王よりも始末が悪い、
なんて……。」
陽子は苦く自嘲してみせる。
炎に例えられる常の陽子にはあまりに似つかわしくない表情ではあったけれど。
惑いは、それでも彼女自身のものであって消すことも叶わない。
「私は、どうしたら良いんでしょうか。」
失道させず、道をあやまたずに、いったいどれだけ王として生きていけるだろう。
どうすれば景麒が笑ってくれるかだけはわかるけれど、それにはこの慶を幸いの国土としなければならない。
「いや、国を少しづつでも単に進めて行くだけなら、まだ何とかなるのに。」
けれど、尚隆は言う。
――物だけで人が幸せになるなら簡単なのだがな――
その時は解らなかった。富んだ国の君主なればこその台詞だと。
だが、そうではないのだ。それだけでは無い。物は必要でも全てとはなってくれない。
男はしょうがないと言うように、小さく鼻の頭を掻いて、陽子に解らぬように微かな溜息を付く。
「陽子、せめてそう言うのは相談なり、愚痴になるように言え。」
まるで寒さをはらんできた風からその頑健な体躯をもって陽子を庇うように立ち、尚隆は苦笑混じりに言う。
この遙かに年下のそして後輩の女王は、擬王軍と戦った時そのままに、偽善も嘘も許さない潔癖さと覇気で、
全ての向かい風に己一人の足で立とうとする。それを傲慢、身の程知らずと言ってしまうのは容易い。
だが今、露台の遙か向こうを睨むように見つめる小さな背中は、焼き切れそうだと思う。
「俺は、陽子の枷となるために友誼を結んでいるわけではない。」
雁は確かに慶に対して、幾多の援助の手を伸べてきたけれど。
「感謝しています。私もうちの官吏も民も。」
ぎりりと唇を噛む。
「延王様、私は、出来ることと出来ないことを履き違える愚だけは侵したくない。
先達のあなたに助力を請うことを嫌うているわけではないんです。助けを請えることに感謝しています。」
ただ返すものの無い自分が不甲斐ない。
「延王様。」
「尚隆だ。お前に号で呼ばれるのは、どうもぞっとしない。」
「……尚隆殿、迷われたことはありませんか。」
おずおずと問う。
「麒麟を疑ったことはありませんか。その誠ではありません。麒麟は、あのようにしか在れないから。だから、ここに居るのだと。」
彼等の意志など運命のために掴みつぶされて、存在し得ないのではないかと。
それではまるで木偶だ。傀儡使いになりたいわけではない。
「麒麟が剣を取らねばならないほど私は不甲斐ない。貴方ならそんなことはあり得ないのに。」
「それで、」
「それで、とは?」
「何に迷っている。自国の麒麟を疑ったら王なんて商売は続かんぞ。」
頭二つも高いところにある尚隆の顔を見上げる。彼女を見おろさずに遠くに据えた視線がかえって優しいと思う。
剛毅で、飄々として、それでいて王としての貫禄をちゃんと纏っている。
「なあ、陽子、景麒の心が何処にあるかなんぞ景麒にしかわからん。
惚れた相手のことをのろけているのならそれはそれでかまわないが、それなら俺以外の男にして欲しいものだな。」
「は?」
尚隆はあくまで飄々と告げる。しかし陽子の言葉がのろけに聞こえるなど、今ひとつ理解しがたい思考回路と思う。
「妬けるぞ、そういう言い方は、な。結局景麒が何を思って陽子の傍らに居るかが解らなくて不安なのだろう。」
からかうように、その巨躯を屈めて陽子の顔をのぞき込んで、にっと笑う。
言いながら、なんと心の機微に疎い女かと呆れる。どこの麒麟が剣を帯びてまで主を護ろうと出来るだろう。真意の在処を
問うなど愚かしいにも程がある。しかし、その自意識過剰からの遠さが陽子を育てていることも解っていた。
いきなりの事に顔から指先まで赤くして、陽子は息を飲んで反論する。
「そ、そう言うことではっ。」
「まあ、それはいい。ただな、景麒が天帝や性癖に決められただけで宰輔として居るだけなら、たぶん予王は迷ったりしなかった。
予王の話は以前したな。」
黙って頷く。擬王と戦う前に尚隆は陽子に事の顛末をかいつまんで話した。しかし予王に関することがらは堯天においては、
禁忌のように誰も愚王だと言うことと、景麒に邪恋を抱いて国を傾けたことしか言わない。
真実など何処にも無かった。官の対応も新王を気遣ってのことと知れるだけに問いつめることが出来ない。
苦し気な顔が手に取るようで、景麒に聞くことも出来なかった。
「予王は――そうだなもう今は、国を傾けた女王としか言われないな――在位は短かった。確かにな。慶国も荒廃した。
民は苦しみ深く綱紀は乱れる。それだけで王としては十二分に罪人だ。力のない王はそれだけで百姓の恨みを受けて当たり前だ。
だが、いささか身びいきとも思うが予王はそればかりの女王ではなかったな。線が細くて見るからに儚げで決定的に覇気が薄かった。
だがな俺は簡単には悪し様に言う気がしない。予王がやったことなどむしろ王としては普通の事だ。あんな事は他に幾例でもある。
予王はそれでも必死に立ち直ろうとした。愚かな官に国を食いつぶさせちまったが、民の声の全て忘れては居なかった。
単に狂っていればもっと楽だろうに、皮ばかりの身体になって苦しんでな。景麒愛しさで王位を返却したと俺も言ったが、
実際は民のために天帝のもとに登った。俺に次の王が立つまで、景麒が次の王を見つけられるまで、
どうか慶を頼むと、血を吐くような親書だった。」
そこまで言って尚隆は苦く笑う。
助けてやりたかった。叶うなら護ってもやりたかった。
次々に王も麒麟も尚隆の傍らを駆け抜けていく。隣国として出来る限りの援助はしたけれど、それで充分だったろうか。
雁は尚隆の治世が長く安定している。なまじ隣なだけに、荒民は自国と雁とを比較して王に呪詛を投げつける。
それでも、あの女王は頼る者とて居ない玉座に在ったではないか。己の麒麟しか見えなくなるほどの孤独に呵まれ、
それでも彼女なりに戦っていたのだ。見えない荒廃という敵と。
ただ、『愚王』と呼ぶことなど出来ない。
玉座の意味も重みも他者よりは幾らか知っている。
陽子は自悔の濃く滲む尚隆の顔を不思議な思いで眺めた。磊落な姿しか見たことが無かったかも知れない。
「麒麟の気持ちは麒麟にしか解らない。だが、お前がどれ程国に迷って王位を返却するために蓬山に登っても、
あいつは三人目の王を望めるほど薄情な奴じゃない。違うか?」
むしろ、景麒の不器用な優しさ故に予王は国を惑わせたのだ。
「信じろとは言わん。契約で成り立っていると思うなら陽子もそこまでだ。人の繋がりなどそれで普通だろう。
景麒に失道して欲しくはないがな。――陽子、お前はまだ王として雛だ。かく言う俺など言うに及ばん、国にも完成などありはせん。
慶を思って迷うのも良い。景麒とより強い絆を築いて国を富ませたいというのも道理だろう。だがな、
今は、迷って居る時じゃない。立ち止まっている場合じゃない。繁栄に頂きなど無くても走る道は見えているだろう。」
遙かにさえ終着点ない過酷な道。誰も手は引いてくれない。強風から防護してはくれない。
自分がしてやれるのはせいぜいこうしてこうした幕間で、冬の風を身体で僅かに遮ってやる程度。
玉座と折り合えずに悩む行き場無い思いを聞くくらいしか出来ない。
そしてこの緑の勝ち気な瞳は誰かに庇われては輝かない。誇り高い眼差しだけで王であることを示す灼熱の女王を、
出来るならこの先の過酷な運命の全てから護りたいと、むしろ男として思うけれど。
傍らを歩くのは、常に麒麟。互いを支え合うのは麒麟と王の腕のみだ。生も死も共にする己が半身。
ただ人ならひっそりと寄り添えても、隣国の王で在る身にはそれも叶うまい。もしも尚隆がそれを望むことがあれば、
なによりそれは陽子にとって負担になるだろう。
厳しい言いぐさではあっても、他に目を向けていられるほど今の慶の状況は生易しくない。
「泣くのは何時でも出来る。だが今死にかけている民を救うことは今しかできない。違うか?
まして死人に飯を食わせてやることはけっして出来ん。」
陽子はこっくりと頷く。息付けぬ程苦しい台詞ではあるが、それが真実。
甘やかされ目隠しをされても自分は決して安穏とは出来ないだろう。海客として追われた日々は、陽子に現実僅かなりと教えた。
王座を贅沢を望むための玩具になど出来ようはずもない。
愚かさにまみれて卑怯になることだけはしたくない。
だが、言った側から尚隆はひどく優しく響く声で続けた。
「だがな、それは一つの建前だ。走るばかりで焼き切れてしまったら、お前はこの先の誰にもこの国を返してやれない。」
保身だけに務めろとは言わない。当たり前だ。そんな王なら居ない方がよほど良いと、かの矜持の高さで知られる供王も言うだろう。
「もしお前が疲れて泣くなら景麒の側で泣くといい、休むときも然りだ。まぁ俺としては……そうだな立候補したいところではあるがな。」
「尚隆殿?」
気障な台詞に照れたように尚隆が笑う。
「俺は女が泣くのは苦手だ。だが俺の知らないところで一人で泣かれるのはもっと好かん。護りたい女が一人で隠れて泣く。
それでは、何のために俺が居るのか解らない。」
口説くように陽子に語りかけながら、似たよううなことを昔言ったことがあると思い返す。
――国が滅んでもいいだと? 死んでもいいだとぬかすのだぞ、俺の国民が!
民がそう言えば、俺は何のためにあればいいのだ!?――
陽子はむろん尚隆の民ではない。だが、友と呼んだ相手の力一つにもなれず漢としてある意味などあろうか。
「幸い、この馬鹿殿は馬鹿殿なりの知恵も経験も積んでるからな。」
「尚隆殿……。」
「焦るな。」
陽子から離れながら、立った今口説きまがいの台詞を口にしたとは思えない様子で、尚隆はひらひらとさも気楽そうに右手を振る。
「景麒のことは、奴自身に聞いてやれ。慶を思うなら奴の考えも一応は聞いてみろ。お前よりは長くこの国を案じてきている。
馬鹿で融通がきかんが頼りに出来ない奴ではない。」
言うべき事は全て告げたというように、延王はひらりと身を翻し、鍛えられた長躯が室内に消えていく。
その背をぼんやりと見送り、陽子は露台に吹き付ける風の寒さと強さを改めて感じた。
* * *
「主上、主上はこちらにあらせられますか。」
よく知った幾分質は細いが、回廊によく通る声が登ってくる。
「此処だ。」
応えてながら失笑する。何処だも此処だも無い。これだけの至近距離なら麒麟に王気を発する陽子の居所がわからないはずがない。
王の気配は麒麟に陽光のような明るさを感じさせるときく。王毎にその色彩は変わっても見違うことはない。
陽子がかつて尋ねた際、景麒は如何にも不本意気な口調と表情で烈火のようだと答えた。
呼びかけは景麒なりの遠慮なのだろう。
「どうした。何か急ぎで採決することでもあったか。」
平然とした声で問いかけながら、不思議なものだと思う。
戦場に赴く陽子ゆえの血臭に病んだ景麒に、陽子はあれほど居たたまれない思いを抱いていたと言うのに。
「いえ。」
陽子の手前で長身を軽く折って敬意を示す。あまりに他人行儀で景麒らしい。
麒麟特有の黄金の髪がさらりと肩から滑り落ちる。
「延王様より、主上がこちらでお待ちだと窺いましたので。何か御用だったのでは。」
景麒は生真面目に答える。
「まったくあの方は……。」
小さく口元で微笑んで陽子は呟いた。
「は?」
「いや、延殿はどうなされた。」
「はい、急ぎの御用とかで、早々にお発ちになられました。」
「ほとんど、やり逃げされた気分だな。」
この期に及んで景麒を目前に引き出し、いったいどうしろと言うのか。
幾らでも腹芸が出来るくせに、あまりに直截な尚隆の為しように呆れずにはいられない。
些か不穏当な表現をして陽子は肩をすくめた。その言葉に景麒のは眉を顰める。
「何とおっしゃられました?」
「ああ、真面目に取るな、冗談だ。まったくお前には気安く軽口も叩けんな。
延殿はな、お前のことは直に聞けば良いとおっしゃっていたんだ。」
「私の事でございますか。何かご質問でも。」
腑に落ちない様子で問いかける。眉を寄せたさままでが秀麗というのだろうか。
全く嫌みなくらい端正な造りだと陽子は内心呆れる。
「ああ、麒麟のことは麒麟にしか解らないからとな。」
尚隆が向かっただろう雁国の方角を遙か見晴るかす。
「国や民やお前のことで疲れて泣きたくなったら、ご自分の処で泣けとおっしゃって下さった。」
景麒に言うには最早笑い話でしかあるまいが。まるで、それを誘うように風が陽子の深紅の髪を巻き上げて空に誘う。
外に逃がした、主の視線の先には何があるのか。
「――主上、失礼いたします。」
一言言い置いて、景麒の腕が陽子に伸びる。
「け、景麒。」
「恐れながら、主上。主上の国民まして僕たる私のことなれば。もし必要とあるなら私の腕でお泣きになればよろしい。なにとぞ。」
感情の一欠片も読みとれない声音が、胸板越し耳に直に響く。
抱きしめられて、その暖かさとその迷いのなさに愕然とする。
「王はその殆どが国と民の物にございますが、私は――麒麟は――その髪の一筋までも主上の物に御座いますれば、
貴女が民に明け渡された身体と心の埋め草には私と思し召し下さい。どうか。」
身体に回る二本の腕に力を込める。誰にも国民にすら渡したくはない、彼だけの王だと思う。
登極して間もない頃から何一つ弱音をこぼさなかった主が他国の王の前で嘆いたのがいかにも悲しい。
それだけの力を持っていなかった己が余りにも情けない。
かの大国の王より、今のこの少女が己の王であると言うことがどれ程自分にとって誇らしいか、
この腕の中で身を固くしている主は知るまい。
「僭越とは存じますが。」
口調はあくまで堅苦しく。けれど、声が熱い。
「景麒、お前そんな口調じゃ気になった女性一人口説けんぞ。だかまあ――お前は慶のことは解ってくれるからな……。
――景麒、私はこの先も幾度でも血にまみれる。人も妖魔も切るだろう。愚かで汚い仕事を繰り返すだろう。
王宮の奥で御簾の奥で採決だけを下す王にはなれない。だが、お前を戦場で頼らねばならんほど不甲斐なくもなりたくない。」
景麒に病まれることは、身を切られるよりずっと辛いけれど。血刀を握る景麒など見たくは無いのだけれど。
「はい。」
「だが、お前は私の麒麟だ。愚かでも私が景王だ。私と共に誰より汚れて貰うぞ。お前が自分で選んだことだ泣き言は聞かん。
今までも、これからも、ずっとだ。」
それこそが、望みの全て。麒麟であるからと戦いにも伴われず、病まぬようにと遠く護られてどんなに苦しかったか。
景麒は艶やかに笑んで頷く。
「はい。」
前髪をまるで猫ででもあるような仕草で景麒の胸元に一度擦り付け陽子は勢いをつけて離れる。
晴れ晴れとした彼の主上の魂をそのまま面に表面に顕わした、陽光のような笑顔。暫し見とれて、思い出したように深く喉頭する。
陽子は小さくはにかむように笑った。
* * *
「それで、」
「それで、とはなんだ。」
尚隆は不興な様子で自分の腰辺りに金の頭を見せる延麒に応える。
「結局お前が背中を押してやったのか。」
面白げに問いかける六太の頭を小突く。少しも痛みなどなかろうに、わざとらしく撫でさすりながら
六太は尚隆の苦虫を噛みつぶしたような顔を見上げた。
「隣国の王の悩みを聞いてやって何が悪い。」
「きれい事を言うなよ。単に陽子と話がしたかっただけだろうが。」
「何、奴は奥手だからな、少しハンデを付けてやっただけだ。」
しゃあしゃあと告げる。
「ま、お前の馬鹿話に付き合ってくれるなんざ陽子くらいのもんだもんなぁ。供王が相手じゃ完全にお前が位負けてしてるしなぁ。
その点陽子はなんだかんだ言って初なとこあるしさ。だけど、も、ちぃーっと柔らかみが出てもいいんだけどな。」
王としての覇気は必要だが、気負いすぎているのではないだろうか。生真面目が慶の気質なら、まさに王たる資質と言えるだろう。
がむしゃらで健気な誇り高い少女。
未だ護られることの必要性を理解できずにいる女王。
「そいつは、今後の俺の楽しみだ。邪魔するなよ。」
尚隆は如何にも愉しげに笑う。あの太刀筋も放っておくには如何にも惜しい才能であることだし、ただの女と見てもあの気性は極上だろう。
何より誇り高い眼が尚隆の視線を惹き付けて止まない。この先 退屈とだけは縁無く過ごせそうだと薄く笑った。
炎の髪を翻し、躊躇いと痛みを包み隠して、戦場では陣頭で自ら血刀を振るうだろう艶やかな女。
――奴はきっと十二国唯一にして最初で最後の王と共に戦場に立つ麒麟となるだろうな――
心中に呟いて、尚隆は傍らの六太を振り返る。自分はこの五百年来の伴侶をそこに伴いたいとは思わない。おそらく陽子も思いはすまい。
だが――
麒麟は王に仕え、その命の全てを王と在るために費やし、尽きる。
哀れで、愚かな、崇高な生き物。
けれど――
それは、不幸ではない。
望む相手の傍ら、幸いの楔に打ち付けられて――
「主上のおあすところ、如何な場所であるとも、共にあるとお誓い申し上げる。」
そして……
「許す。」 と。
■ 完 ■
文責 : 柊 hiragi@cool.email.ne.jp
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